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 マシアス達がいなくなってから数日後。
 深夜に迎えのデンキジドウシャがやって来た。
 デンキジドウシャはカモノハシの頭のような流線型の形をしていた。高さはクグレック程あり、車体は膝くらいの高さまで宙に浮いていた。上部側面はガラス張りになっており、前面には二人の男性が座っていた。一人は、顔よりも大きなリング状のハンドルを握っている。
 ハンドルを握っていない方が、デンキジドウシャの中から出て来た。金髪碧眼の男性だ。青い目は、マシアス達と同じような水色だった。銀縁眼鏡にかっちりと7対3に分けられた前髪で、真面目そうだ。彼はクグレックたちを見ると、一礼した。
「お待たせしました。トリコ王国より迎えに参りましたイスカリオッシュです。お荷物はお預かりしましょう。」
 ニタが背負うリュックサックを受け取ると、イスカリオッシュはデンキジドウシャの後ろを開き、荷物を入れた。
「では、お二人は後部座席にお座りください。」
 クライドはデンキジドウシャの後部座席側のドアを開け、ニタとクグレックに入るように促す。二人は促されるままにデンキジドウシャの中に入り込んだ。中はふかふかのソファのような座り心地の良い席となっていた。二人がきちんと座るのを見てから、イスカリオッシュはドアをしめ、自らも前面の席に座った。
「では、出発します。」
 と、イスカリオッシュが言うと、デンキジドウシャが起動し、ゆっくりと前進し始めた。徐々に速度も上がって行き、窓から見える景色は、汽車に乗った時の車窓の景色と同様に流れていく。汽車と違うのは、無音であることと振動がないこと。カタンカタンという線路を通る音や風が轟く音が聞こえなかった。遮音性に優れているボディである。
 クグレックがふと後ろの窓を見ると、キラキラと七色の光が噴出されていた。あまりにもきれいだったのでしばらく見とれていたが、なんだか気分が悪くなってきたので、再び前を向いて座った。
 バックミラーでクグレックとニタの様子を見ていたイスカリオッシュが微笑みながら声をかけて来た。
「ふふふ。お二人はデンキの力を目にするのは初めてですね。」
「デンキの力?」
「えぇ。物体を動かすための力です。トリコ王国は水が少ない砂漠の土地にあります。生きることが過酷な地でもあるのですが、それはつまり裏を返せば過剰な程のエネルギーの宝庫だったのです。太陽光が燦然と降り注ぐこと、その太陽光が照り付けた地面、さらに砂嵐を巻き起こすほどの暴虐的な風は我々の敵であるが、共存しなくてはならない相手でした。先々代のトリコ王はこの砂漠エネルギーに目を付け、デンキを生み出しました。」
「デンキって、魔法なの?」
 ニタがイスカリオッシュの話に眉間に皺を寄せながら、質問を投げかける。イスカリオッシュは爽やかに笑った。
「ははは。いいえ。魔法ではありません。理論という理論を組み合わせた先に出来上がった科学の力なのです。魔法とは異なり、原理さえ理解できれば誰でも使うことが出来ます。今はトリコ王国でしか使われていませんが、将来的には大陸全土に広がる知識、技術になると思っています。」
「なんか難しい話だなぁ。」
「トリコ王国にいらっしゃいましたら、お分かりになると思います。」
「うん。それは楽しみ。」
「王もお二人にお会いするのを楽しみにしています。」
「王?」
 イスカリオッシュの隣でハンドルを握る男が、イスカリオッシュの腕を肘でつついた。イスカリオッシュはハッとした様子で「失礼」と微笑んだ。
「そう言えば、紹介が遅れましたが今運転してる彼はクライドと言います。ディレィッシュから聞きましたが、クグレックさんと同郷なんですよね。」
 クグレックはバックミラー越しに、クライドを見た。眉毛が凛々しく端正な顔立ちで、かつてマルトに来たドルセード騎士団の騎士と同じ深い青色の目をしている。きっと王都の上流階級だったのだろう、とクグレックは思った。
「私は田舎の村出身ですから…。」
 と、クグレックが言ったところ、バックミラー越しのクライドは一瞬怪訝そうな表情をした。クグレックは何か悪いことを言ったのか不安になり、眉根を下げた。『田舎』という表現がまずかったのだろうか。
 だが、クライドは何を言うでもなく、普通の表情に戻った。目の前の運転に集中する。
「クライド、少しくらい喋ったらどうだ。そんなにディレィッシュから離れたのが気に喰わないか。」
「別に。喋りはイスカリオッシュの得意とするところだろう。」
「全く君は、シャイなんだから。」
 イスカリオッシュは少々不満そうにするが、再び意識をニタとクグレックに向けた。
「そうだ、トリコ王国までは時間がかかります。一日以上はかかるので、途中、集落によって食事休憩を取ったりしますね。運転も、なかなか体力が必要なので、クライドと交代で行います。クライドが助手席にいるときは、ちょっと静かになってつまらないかもしれませんが、許してくださいね。彼、寡黙な男なので。」
 微笑みを湛えながら、イスカリオッシュが言った。
「とはいえ、お二人は今の時刻だと、もう寝ている時間ですね。シートの横についている小さなボタンを押せば、シートが倒れるようになってるので、好きな角度で調節してください。」
 と、イスカリオッシュに説明され、二人はシートについているボタンを押した。すると、背もたれが、体重に任せてゆっくりと倒れていく。水平に開きまではしなかったが、それなりにリラックスした態勢になった。
「もとに戻したい場合は、背を起こしてボタンを押してください。そうすると、背もたれが元の位置に戻るようになっています。では、私もしばらく静かにしてますので、お二人はゆっくりお休みください。」
 イスカリオッシュに促され、二人はリクライニングされたシートの上に身を任せる。窓の外は虹色の粒子に照らし出されても、判別がつかない程真っ暗だ。
 真夜中ということもあり、二人はすぐに眠りの世界へと誘われた。魅惑の砂漠の国トリコ王国への憧憬を胸に抱えて、夢の世界へと落ちて行った。
 デンキジドウシャは虹色の光の粒子を噴出させながら、汽車と同じかそれ以上のスピードを出して、トリコ王国へ向かう。
 ニタとクグレックは、砂漠の王国で驚愕の出来事が、そして運命の歯車をも狂わせてしまうようなとんでもない事件が待ち受けていることも知らずに、のんきに眠り続けていた。
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 2016_01_15


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 クグレックは、事態に恐れ戦いていた。
 大勢の侍女に囲まれて、パーティー参加の準備が行われる。
 トリコ王国の伝統的衣装ということで、金や銀の豪華な装飾がじゃらじゃらと施された紫のブラトップにひらひらと流れるシルクの紫のロングスカートに何人もの侍女の手によって着替えさせられた。
 砂漠の国は高温なので、腹は余すことなく晒されて、スカートも薄手で目を凝らせば中が透けて見える程に薄かった。見えても良いよう華美な装飾が施された紫色の見せる用の下着をに履いてはいるものの、クグレックは恥ずかしくて仕方がなかった。寒い土地にいたため、ここまで露出したのは、風呂に入るときに裸になるくらいだったのだ。お腹はスースーするし、胸元だってどうぞ見て下さいと言わんばかりに開いていて恥ずかしい。
 また、衣装についている装飾に負けないくらいの装飾品をを腕や足首、首にもつけられた。本物の金や銀、宝石を使用しているため重い。
 さらに、クグレックは生まれて初めて化粧というものも経験した。侍女たちが全てをやってくれるのだが、鏡の中の自分を見た時、年相応の若い女性らしく華々しい様子に変身していたことにびっくりするのと同時に少しだけ嬉しくなった。が、それは一瞬で、すぐに自身の露出への戸惑いが再び彼女を襲った。
 よくよく周りをみれば、周囲の侍女たちは下は動きやすいように裾がすぼまったシルクのハレムパンツを着用しているが、上はクグレックと同様にへそと胸元をさらけ出していた。このような露出がトリコ王国でのスタンダードであるようだ。とはいえ、慣れないものは慣れない。
 頭にはカチューシャ型のベールをつけ、準備は万全となった。
「クグレック様、大変お似合いですよ。きっと王も喜ばれることでしょう。」
 侍女に囁かれるも、クグレックは戸惑うばかりで何も言えなかった。
 せめてニタと同じ部屋で準備が施されているのであれば、気が楽だっただろうに。
 別室のニタは、今、どんな様子でいるだろうか、とクグレックは考えたが、ニタのことなので、それはそれでマイペースにやっている。

 さて、話題は戻るが、クグレックとニタが連れて来られた場所は、トリコ城である。
 トリコ王国入国の厳重なセキュリティーを抜けて、しばらく行くと、そこは右も左も砂漠地帯だった。変わり映えがしない風景が続いたので、ニタとクグレックはつい眠ってしまったが、イスカリオッシュに「つきましたよ」と起こされた時には既にトリコ城に到着していた。
 トリコ城はまるでおとぎ話の絵本で見たことがある砂漠の国のお城だ。白いレンガの壁を基調として、中心に青緑色の大きな丸いドーム型の屋根、また四方に尖塔が立ち並び、山のように荘厳にそびえ立っていた。
 イスカリオッシュに促され、デンキジドウシャを降りると、ニタとクグレックは侍女たちに囲まれ、それぞれの部屋に連れていかれた。そしてすぐに、トリコ王国風におめかしされたのだ。
 侍女たちの話によると、クグレックたちは、これからトリコ王に謁見することとなるらしい。
 リタルダンドでのマシアス達の話によれば、クグレックたちはトリコ王国とランダムサンプリ国の戦争を止めるお手伝いをしていたのだ。それに対するお礼ということで、マシアスとその兄ディレィッシュからおもてなしを受けることとなっていたが、まさか国を挙げてのおもてなしだったとは。
 国家間の戦争を止めたのだ。確かに国王から喜ばれるのは間違いないだろうが、国王まで巻き込むなんて、マシアス達は少し大げさすぎだ、とクグレックは思っていた。。
 衣装に着替え、鏡の前で待たされたクグレックは、手元にあるボタンをカチカチと押してみた。すると、目の前のランプの灯りが同じタイミングで消えたり付いたりした。火を直接灯さなくても、灯りがつくのがトリコ王国らしい。これがイスカリオッシュが言っていたデンキの力である。まるで魔法だ。
 やがて、祝宴が開催される時間となり、クグレックはニタと合流した。この時クグレックがどれほど安心したかは計り知れない。
 ニタは、頭に水色や黄色のターバンを巻き、ピンクや赤、橙色のストールを体に巻いていた。いつぞや着ていたローブなどよりも鮮やかで可憐さがより際立ち、ニタに良く似合っていた。大変可愛い。
「クク、すごいセクシーな格好だね。でも、似合うよ。」
「う、うん。ありがとう。」
 侍女たちに囲まれて、二人は大広間に続く廊下を歩く。廊下は天井が高く、
「それにしても、なんだかすごいことになっちゃったね。王様直々におもてなしって、どういうこと?気前良すぎじゃない?」
「本当に。こんな恥ずかしい恰好だし…」
「そうだね。ククはちょっとセクシーすぎるから、ニタ的にはあんまりマシアスには見せたくない恰好だね。まぁ、とにかく、ニタは美味しいごはんが食べられると嬉しいなぁ。」
「私は早く着替えたい…。」
 クグレックの声は今にも消え入りそうだった。

 2016_01_20


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 祝宴は大広間にて開催された。
 上座のメインテーブルに案内された二人は、席について大人しくしていたが、しばらくしてから砂漠の衣装に身を包んだイスカリオッシュがやって来た。イスカリオッシュはクグレックの隣に座った。クライドは王と一緒にやって来るらしい。
 席は中心の席とニタの隣が開いていた。
 そして、さらにしばらくしてから、王が姿を現した。
「やぁ、諸君お集まりのようだね。」
 白いいターバンをヴェールのようにして金色の装飾でとめ、金色のマントを羽織った王様がやって来た。その後ろをクライド他お供達がついて来る。
 王はクグレック達をみるとふわりと優しく微笑んだ。空の様な水色の瞳が優しくクグレックたちを見つめる。ターバンの下から覗くサラサラな金色のおかっぱの髪を見て、ニタとクグレックは、はっと息を呑んだ。
 この男はリタルダンドの首都で出会った男、ディレィッシュだ。
「ももももしかして、ディ、ディレィッシュ?」
 ニタが動揺を隠せない様子でどもる。
「敬称をつけろ、ニタ。」
 ディレィッシュの後ろにつくクライドが不機嫌そうに低い声で言った。だが、ディレィッシュは微笑みを称えながらそれを制して
「ふふふ。いいんだ、クライド。二人は私の客人であり友人なのだ。それに、ちょっとサプライズをしたかったので、ニタとクグレックが驚くのも仕方がないことなのさ。」
と言って嗜めた。
「では、改めて紹介しよう。私はトリコ王国国王ディレィッシュだ。再び二人に会えて嬉しいよ。」
 ニタとクグレックはびっくりして何も言えなかった。ディレィッシュは満足した様子で、ニタとクグレックの間の席に座った。その背後にクライドがぴったりとくっつく。
「そうだ、その様子だとクライドもイスカリオッシュも正体を明かしていないだろうから、私から紹介させて頂こう。まず、イスカリオッシュは私の弟だ。トリコ王国第2皇子だ。そして、後ろのクライドだが、私の親衛隊隊長だ。」
「ところで王、第1皇子はどうしたんですか?」
 イスカリオッシュが尋ねると、ディレィッシュは途端に表情を暗くした。
「…ハーミッシュは、体調不良だ。部屋で休養を取らせている。」
「彼は少し休んだ方がいいのですが…。ただ席が空いてしまいますね」
 そう言ってイスカリオッシュはニタの隣の空いた席を見た。
「やむをえん。無理をして余計悪くさせてもマズイ。彼の仕事はいまだ忙しい。」
「そうですね。」
「まぁ、気を取り直して、宴を始めよう。」
 そうして、宴は始まった。
 王が乾杯の音頭を取ると、それからは音楽や豪華絢爛な踊りが目の前で繰り広げられ、大いに皆を楽しませた。食事も次から次と出て来る。クグレックは緊張しっぱなしであったが、ニタは大いに満足し、次第に緊張もなくなって行った。
 宴の最中、ニタは王に気になっていたことを尋ねた。
「マシアスはどうしてるの?」
「ん、マシアス?」
 王は首を傾げる。
「マシアスだよ。ディレィッシュの弟。」
「はて、私にはハーミッシュとイスカリオッシュの二人の弟しかいないんだが…。」
「え、どういうこと?あの時、マシアスのことを弟って言ったじゃないか。」
「うん?いつの時のことだ?…お、ニタ、凄いぞ、火を使いながら踊るみたいだぞ!」
 目の前で繰り広げられる余興に、国王は大いに釘付けだった。マシアスに関する話は、これ以上話しても無駄なようだとニタは一旦諦めて、目の前の宴を楽しむことに集中した。ごはんもおいしいので、今はこの楽しさを享受しよう、と決めた。
 2016_02_04


**********

 そして、宴も終わり、二人は宛がわれた部屋で一息ついていた。
 侍女から部屋の使い方の説明を受け、ニタは好奇心にかまけて部屋の内部を色々と弄り始めていた。
 この部屋は入り口にあるスイッチや、ベッド横にあるスイッチ一つで灯りをつけることが出来る。そして、リモコン1つで部屋の気温を調節することが出来る。また、部屋の隅にあるニタ一人が入れそうな大きさの銀色の箱はレイゾウコというもので、飲み物や食べ物を冷たく補完することが出来る。冷たい飲み物がすぐに飲める便利な箱だ。また、冷やすだけでなく凍らせる機能もついている。
 部屋の中央にあるローテーブルの上にはポットが置いてある。これは火を使わずとも瞬時にお湯を沸かし、保温することが出来る機械だ。ティーカップと茶葉は準備されているので、すぐに紅茶を飲むことが出来る。隣の部屋には風呂も備え付けられており、こちらもボタン一つ押せば泡風呂が出て来る仕様だ。
 とにかく便利な機械が揃っているこの部屋で、好奇心旺盛なニタは色んなものを弄り尽した。
 クグレックもニタ程でもないにせよ、気になる物には一通り手を触れて使い方を確認している。
「ニタ、寝る前にこのボタンを押すと、リラックスして眠れる音楽が流れたり、いい匂いがしたりするんだって。なんだか至れり尽くせりだね。」
「本当に!レイゾウコのなかも凄いよ!アイスが入ってるし、色んなジュースも入ってる。お酒も入ってるけど、ククはまだ未成年だから飲んじゃダメだよ。」
 おそらく未成年であろうニタも興奮気味で言う。ニタの口元は茶色く汚れていた。どうやら、レイゾウコの中にはチョコレートも入っていたらしい。祝宴であんなに食べたのに、まだ食べるニタにクグレックは呆れかけた。
 と、その時。部屋の中央にある手のひらサイズの手鏡のような機械から音楽が流れて来た。
「に、ニタ、これはどう使えばいいんだっけ?」
 ニタは目を輝かせて音楽が鳴る機械を掴みとった。使い方は侍女から説明されている。
 表面をさらさらと撫でると、手鏡の様な機械から光が放たれた。ニタはそれを床に置くと、光の中から国王ディレィッシュの姿が現れた。しかし、このディレィッシュは透き通っていて、向こうの壁が見えている。
『やぁやぁお二人とも。どうやらトリコ王国謹製機械を使いこなしているようだね。繋がって何よりだよ。』
 透き通ったディレィッシュはニコニコしながら言った。
 一方で、ニタとクグレックは目を丸くして驚いていた。こんな小さな鏡からディレィッシュが出て来たのだ。体は透き通っているが。
『そうか、初めて立体ホログラム映像を見たから驚いているんだな。二人とも、これはただの映像なんだ。私は別の場所にいるんだが、この機械を使えば、離れたところでもこうやって話をすることが出来る。無論私の部屋からもこの機械を通して、二人の声や姿が見えているよ。』
「機械って、魔法みたい!何が起こるか分からない!」
 興奮した様子でニタが言った。
『ははは。確かに初めて見ると、魔法のように思えるかもしれないな。でも、これはタダの機械さ。機械は魔法のように自由には出来ない。』
 それでも、クグレックは姿を映したりするような魔法はまだ知らない。魔法なんかよりも機械の方が凄いのではないか。
『さてさて、二人にはお願いがあってね。今後のトリコ王国の発展のためにも、ぜひぜひ協力してほしいんだ。直接会って話がしたいんだ。この4D2コムを手に取って欲しい。私が見えていると、取りづらいだろうから、いったん私は消えて声だけになろう。』
 そういうとディレィッシュの姿は瞬時にして消えた。ニタとクグレックはきょろきょろと辺りを見回すが、ディレィッシュの姿はどこにもない。
『4D2コムを手に取ってくれ!』
 手鏡からディレィッシュの声だけが聞こえる。ニタはそれをひろい上げて不思議そうに眺める。
「…4D2〈フォーディーツー〉コム?これのこと?」
『そうだ。その液晶を触ってみてくれ。』
 ニタは4D2コムの表面に触れた。すると、1から9までの数字が表示された。
『指で3、1、1、2と触ってみてくれ。』
 ディレィッシュに促されるまま、ニタは表示された数字を触る。
 すると、バスルームの方から、ピロリーンと間の抜けた音が聞こえた。
『ロック解除成功だ!バスルームの方へ行ってみてくれ。』
 ニタとクグレックはおそるおそるバスルームの方へ向かう。クグレックは何となく胸騒ぎがして、樫の木の杖を手に取った。
 バスルームに行くと、そこにあったはずのバスタブがなくなっていた。その代わりに今までなかったはずの扉が出現していた。
『そこの扉に4D2コムをかざせばドアは開く。そしたら中に入って、またパスワードを入力してくれ。番号は5622だ。』
 ニタが4D2コムを扉にかざすと、ドアは勝手に開いた。二人はびっくりしつつも恐る恐る扉の中へ入る。暗くて狭い部屋だった。ニタとクグレックだけで窮屈な部屋なのだ。バスルームよりも狭い。
 ニタはディレィッシュの指示通り再び4D2コムの液晶を触り、数字を順番通りに押していく。
 すると、ぶううんという低い音とともに部屋の照明が自動的につき、扉が閉まる。低い起動音と共に二人は浮遊感を感じるが、床に足はしっかりついている。
 ガタンと音がすると同時に部屋がガクンと揺れた。また浮遊感を感じた。
『これはエスカレベーターと言ってな、私のプライベートラボまで連れて行ってくれるんだ。』
 4D2コムから聞こえる誇らしげなディレィッシュの声。
 流石のニタもとめどなく溢れるトリコテクノロジーに疲労感を見せつつある。
「もうなにがなんだか…。」
「カガクの力って魔法よりもすごいと思う…。」
 再びエスカレベーターがガクンと揺れる。それと同時に低い起動音も止み、エスカレベーターは静寂に包まれた。ぷしゅーと音を立てて、エスカレベーターの扉が開くと、そこは客室のバスルームではなかった。白いナイトガウンに身を包んだトリコ王ディレィッシュの姿がそこにあった。
「ようこそ。私のプライベートラボへ。さぁ、こちらへ。」
 ディレィッシュは嬉しそうに二人を部屋の奥へと招く。
 ニタとクグレックは恐る恐るエスカレベーターを出て、きょろきょろあたりを見回しながらディレィッシュの後を着いて行った。
 青い灯りの廊下を少し進むと、行き止まりに辿り着いた。しかし、ディレィッシュが傍にある小さな箱型の機械に弄パスワードを入力すると、行き止まりだと思われていた壁が瞬時に開いた。奥の方は真っ暗だったが、ディレィッシュが入り込むと、自動的に青い灯りがついた。
 そこはドーム型の円形の部屋だった。大きさは二人に宛がわれている客室と同じくらいの広さだ。
だが、そこかしこに大なり小なりの機械のようなものが設置されているので、人が歩ける面積は限られていた。
「ここは、私以外の者は立ち入ることがない、特別な部屋なんだ。弟たちにもここに立ち入ることは許していない。」
 ディレィッシュの表情に僅かばかりか暗い影が差した。が、すぐに微笑みを浮かべる。
「イスカリオッシュはダメなのにニタ達は良いんだ。それで大丈夫なの?」
 ニタの問いに、ディレィッシュはにっこりと微笑む。
「あぁ。良いんだ。二人なら、なんだか不思議と信用できるんだ。」
 ニタは訝しげにディレィッシュを見ながら、「ふーん」と言い放つ。ディレィッシュはニタの視線を気にすることなくニコニコしていた。
「ところで、お願いってなんなのさ。」
「うむ。それのことなんだが、二人に私の実験に協力してほしいんだ。」
「実験?」
「ニタは今や絶滅したとされるペポの生き残りとされている。ペポの青い瞳は万能薬となることでも有名だ。また、そのふかふかの白い毛は汚れにくく、撥水に優れているし、その可憐な体躯から繰り広げられる力というのも、実に興味深いのだ。」
 ニタはディレィッシュの発言に身の危険を感じ後ずさりをした。
「や、やだよ。ニタの目はあげないよ。」
「嫌だな。そんな惨いことをするはずないじゃないか。ニタの涙の成分を調べたり、瞳孔や光彩の動きや形を調べたりするから、ニタの目を傷つけるなんてことはしないよ。」
「な、ならいいけど。」
「それに、クグレックは魔女だ。今現存する機械と魔法の力を融合させれば、さらにコストパフォーマンスの良いものになるかもしれない。どんな原理で魔法を使うのか、魔法を使う時、クグレックはどうなっているのか、調べたい。」
 クグレックは不安そうな表情でそっとニタに身を寄せた。
 ニタはそっとクグレックに耳打ちをする。
「なんか、変な人だね。トリコ王は。」
「う、うん。」
 二人がひそひそ話し合うのを見て、ディレィッシュは首を傾げた。
 ディレィッシュの視線に気付いたニタは作り笑顔を浮かべて、
「べ、別にニタ達は実験に協力したっていいよ。ただ、ニタ達には行かなければいけないところがあるんだ。だから、そんな長く協力することは出来ない。それでもいいというのなら。」
と、一国の主を前に物怖じすることなく条件を提示した。
「ふむ。行かなければならないところ、か。」
「うん。ニタ達はアルトフールってところに行かなければいけないんだ。アルトフール、知ってる?」
「聞いたことがないな。どこにあるんだ?」
「知らない。けど、支配と文明の大陸にはないんだ。」
「…どこにあるか分からない場所に行こうとしているのか?一体何故?」
「そこに行けば幸せが待っている、特別な地なんだ。実はニタもククも帰る場所がないんだ。だから、そこに行くしかない。」
「ほう。面白いな、それは。しかし、トリコ王国も良い国だ。国民は便利な機械に囲まれ、他の国よりも豊かな暮らしを送ることが出来ている。治安も安定しており、皆が安心して暮らすことが出来ている。当然二人のことは手厚く保護させてもらう。どうだろう、幸せが待っている地はこのトリコ王国である可能性があっても良いと思うのだが。」
「まぁ、そこに関しては、考えさせてもらうよ。それよりも、ニタはトリコ王国の叡智を用いてアルトフールの情報が欲しいな。そしたら、…そうだね、一か月くらいだったらトリコ王国に居ても良いよ。」
 飄々とした様子で答えるニタにクグレックは感心するしかなかった。ニタの強い心臓に憧れを抱かざるを得ない。目の前にいるのは少々変人なところはあるが、やんごとなき身分の人物だ。少しでも失礼に値する言動を行ってしまえば、彼が持つ権力で、この世から抹殺されることだってあり得るのだ。
 クグレックは恐る恐るディレィッシュを見てみると、ディレィッシュは意表を突かれたような驚いた表情をしていた。さっきまであんなに笑みを湛えていたのに、今は全くの無表情だ。やはり、ニタの言葉は王様の機嫌を損ねてしまったのかもしれない。
 ところが、クグレックの不安を他所に、王様は「はっはっは」と声を高らかにあげて笑うのだった。
「ニタ、お前は面白い奴だな。流石勇敢なるペポ族の戦士、とやらだ。その条件で行こう。1か月さえあれば、実験もアルトフールに関する情報収集も上手く行くだろう。そして何より、一か月もあれば二人の心をトリコ王国が捕えることが出来る。意見はいつだって翻していいからな。」
 不敵な笑みを浮かべてのたまうディレィッシュ。自信に満ち溢れていた。
「分かった。じゃぁ、1か月間、お世話になるね。」
 ニタが力強く頷き、ディレィッシュを見つめる。
「あぁ、全力でお世話しよう。」
 ニタとディレィッシュは固く握手を交わした。
 2016_02_22


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「とはいえね、ククがトリコ王国にずっといたいって言うのであれば、ニタはそれに従うよ。」
 エスカレベーターで自室に戻ったニタとクグレック。二人で仲良く初めての泡風呂に入浴し、十分楽しみながら身を綺麗にした後、ふかふかのベッドで一緒に横になりながら、話をしていた。
 照明はリラックスが出来るという薄暗い桜色の灯りに調節した。アロマはラベンダーの香りを選んだ。音楽は敢えてかけていない。静寂の中で二人とも眠りにつきたかったのだ。
「アルトフールは、いいの?」
「…ククがいたい場所にニタは着いて行くんだ。」
「…私は別にトリコ王国に居たいわけではないけど…ニタがトリコ王国にいたいというのであれば、私は…」
 と、言いかけて、クグレックは口を噤んだ。
 クグレックはこの先の言葉を言うことが出来なかった。それは、彼女にもはっきりとは良く分からない。二人の関係性はアルトフールまでだった。アルトフールに着いたら、クグレックは祖母の元へ逝くという約束だったが、何故かその約束を言葉にすることが出来なかった。
 ニタはそれを察したか察してないかは分からないが、クグレックにぎゅっと抱き着いて
「ま、一か月後、どうなるかは分からないけどさ、トリコ王国自体は面白そうなところだし、楽しもうよ!」
 と明るく言い放った。
「うん。そうだね。」
 ニタの明るさに、クグレックもつられて前向きになる。
 その時、クグレックはある人物のことを思い出した。
「そう言えば、マシアスは元気かな。マシアスってディレィッシュの弟なんだよね。ってことは、マシアスは王子様だけど、まだ怪我の具合が良くないのかな…。」
「…そうだった。そこだ。」
 と、思い出したようにニタが呟く。クグレックは「え?何?」と聞き返した。
 ニタは真剣な表情で話し始めた。
「今日の祝宴の時に、ディレィッシュにマシアスのことを聞いたんだ。そしたら、『私にはハーミッシュとイスカリオッシュしか弟がいない』って言ってた。ちょっとどういうことか分からなかったけど、王族って妾の人とかがいるっていうから、マシアスは妾の子で、ああいう場ではマシアスのことを話すことが出来なかったのかなって思ったけど…。」
「確かに。王子様だったら、あんな怪我するような無茶なこと、出来ないよね…。」
 と言ってからクグレックは怪我を負わせたのは自分であったことに気付き、申し訳ない気持ちでいっぱいになり、気持ちも沈んだ。
「会えるなら、ニタも会いたいんだけどね。イスカリオッシュに明日こっそり聞いてみようよ。もしかしたらマシアスのこと、知ってるかもしれない。」
「うん。明日からイスカリオッシュさんがトリコ王国の案内をしてくれるらしいし。」
「イスカリオッシュ、忙しくないのかな。でもま、ニタ達のために時間を使ってくれるなんてありがたいよ。」
「そうだね。」
「あぁ、朝ごはんはなんだろうな。」
 薄暗い桜色の灯りと気持ちを落ち着かせる甘いラベンダーの香りは二人を心地良い眠りの世界へと誘い始める。二人寄り添って眠る宵は今までになく安心出来る夜だった。

 2016_03_09


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 翌日、昼食を取った後、イスカリオッシュが現れた。
 七三分けの銀縁眼鏡は神経質で真面目そうな印象を与えるが、実際に口を開いてみると饒舌で、常に微笑みを絶やさない気さくな人物だ。
 イスカリオッシュは二人を城下町へと案内してくれた。
 今日のイスカリオッシュは第2皇子ということもあり、頭にターバンと巻き顔も目以外は布で隠していた。自身が王族であることが分かってしまうと、トリコ王国の素の様子を紹介できないから、敢えてばれないように顔を隠しているらしい。
 城門を抜けると、眼下には地平線へと続かんとする城下町が広がっていた。
 それはクグレックが見たこともない光景だった。
 鏡のような表面のガラス張りの背の高い建物が立ち並び、青空の太陽を眩しく反射している。建物の間には透明なチューブ状のトンネルのような物が宙に浮いており、その中をデンキジドウシャが駆け抜けていたり、人が歩いている。
 道とは地に着いているものだが、トリコ王国では空中にも浮いていた。二人の常識は凌駕される。チューブ状のトンネルはまるで血管のように城下町を駆け巡っていた。
 遠くを見遣れば砂丘が広がっているので、辛うじてここが砂漠の国だと思い知らされるが、城を中心として形成される城下町は、無機物な高層建築の中に緑地帯を見ることも出来たので砂漠の国らしさを一切感じさせることはなかった。
「…す、すごい…。リタルダンドよりも沢山建物がある…!」
「道路が空を走ってるの…?」
 二人は、思わず地に膝をついて眼下の大都市を見下ろす。
 そばのイスカリオッシュは、満足そうに二人の様子を微笑みを湛えながら見つめていた。
「二人とも、入国した時は寝てたから、城下町の様子は見てませんでしたね。では、ご案内しますので、ついて来てください。」
 そう促されて、ニタとうグレックはイスカリオッシュの後を着いて行く。
 階段を下りていくと、デンキジドウシャが何台も止まっている格納庫に辿り着いた。天井が高く、薄暗い場所だった。3人はデンキジドウシャに乗り込むと、デンキジドウシャは七色に光るトンネルに突入した。ピンク、黄色、オレンジ、赤、紫、青、緑と順々に巡る色を通過していく。
「うう、なんか目がおかしくなりそう。」
 ニタは目を抑えながら言った。
「ふふふ、そうですね。慣れても奇抜な光です。もう少しでトリコ城ですよ、注意してくださいね、という意味と、非日常的なワクワク感を煽るのが目的です。こんな色彩の中を普段は通ることもないでしょう。これは、王のアイディアです。」
「あの王様は本当に変わってるね。」
「天才ですから…。」
 色彩の暴力とも呼べるトンネルを通ること十数分、ようやく自然な外の光が差し込んで来て、城下町へと抜け出した。城から見下ろした時に見えた半透明のチューブ状のトンネルの中を通過する。
「これから商業地区の方に向かいますよ。商業地区は古き良き建物となっております。トリコ王国は今でこそ技術大国ですが、もともとは商人が力を持った国でしたからね。日干し煉瓦のあるがままのバザールの姿が商業地区には残っています。」
 そうしてデンキジドウシャを地下の駐車場に停め、3人は城下町の商業地区へ向かった。
 商業地区は、イスカリオッシュが言っていたように、日干し煉瓦で作られた建物が立ち並び、多くの人で賑わっていた。広場では野菜や果物、衣服、手工業品、家具など様々な物を扱う露店が並んでおり、商人たちの呼び声が元気に響き渡っていた。
 ニタは露店の行商人に声をかけられた。
「珍しいね、外の国の人かい。どうだいお土産にトリコ絨毯なんてどうだい?安くしとくよ。」
「残念ながらニタ達は流浪の身だからね。いつか落ち着いたら買いに来るよ。」
「お、旅人かい。そりゃまた珍しい。」
「へへへ。じゃ、また今度ね。」
「おう、待ってるぜ!」
と、いった具合にクグレック達一行は商人に声をかけられることが多かったが、ニタの持ち前の愛想良さでかわすことが出来ていた。クグレックが声をかけられた時でもニタが間に入った。
 トリコの商人たちは皆陽気でお喋りが好きなようだ。リタルダンド共和国のポルカ村の宿屋のおばさんのことが思い出されるくらいに気の良い人が多かった。勿論商魂溢れる人が多いものの、ニタの喋りでうまくかわしている。
「イスカリオッシュ、これからどこに行くの?」
「あぁ、言ってませんでしたね。これからエネルギー研究所に行くので、お土産を買いに来たのです。とても美味しいクッキーのお店があるのです。」
 そういってイスカリオッシュは路地裏の通りに入っていき、こじんまりとしたクッキー専門店に入った。店内は甘いバターや砂糖の香りが広がっており、ニタとクグレックは幸せな気持ちに包まれた。
「おや、お忍びですか?」
 穏やかそうな老齢の店主がにっこり微笑みながらイスカリオッシュに話しかけた。
「あ、ばれちゃいました?」
 イスカリオッシュは顔を覆う布に触れながら答えた。
「いつも贔屓にしてくださいましてありがとうございます。」
 深々とお辞儀をする店主。イスカリオッシュは困った様子で、店主に顔を上げて貰うように促した。
「詰め合わせを頂けますか?手土産用にしたいのです。」
「はい、かしこまりました。では少々お待ちください。」
 しばらくして、イスカリオッシュは店主から包装されたクッキー詰め合わせが入った紙袋を受け取った。
「そちらの女の子と白いクマちゃんの分もおまけに付けましたので、どうぞお召し上がりください。勿論、イスカリオッシュ様の分もありますよ。」
 そう言う店主にイスカリオッシュは思わず表情を綻ばせて「ありがとう。」と返答するのであった。
 クッキー専門店を後にし、デンキジドウシャを停めている地下駐車場に戻る間、イスカリオッシュがニタとクグレックにおまけで貰ったクッキーの包みを手渡した。ニタは早速包みをあけ、甘い香りのするクッキーを頬張る。サクサクとした食感だが、じんわりとした優しい甘さが広がるとても美味しいクッキーだったので、ニタの表情は瞬時に緩み幸福感を隠せずにはいられない様子だった。
 クグレックも一つ齧ってみたが、とても美味しかった。祖母が作ってくれたクッキーのように優しく、懐かしい味だった。しかし、美味しいクッキーであるにせよ、祖母のものとはどこか違う。甘い香りのクッキーを何度もひっくり返して見つめるが、感じ取れない祖母の面影の正体を突き止めることは出来ない。
「クク、どうしたの?」
 ニタに声をかけられて、クグレックは我に返った。
「ううん、なんでもない。クッキー、おいしいね。」
「うん!」
 クッキーに舌鼓を打つ二人に、イスカリオッシュは満足げな様子で微笑んでいた。
 2016_05_28


**********

 それから、3人はデンキジドウシャに乗り込み、エネルギー研究所へ向かう。
 エネルギー研究所は離れたところにある。城下町を離れると、すぐに雲一つない青空と漠然と広がる砂漠の景色が広がっていた。砂漠には褐色の砂以外何もない。どんな生物もこんな砂漠地帯では生きていけないだろうに、それでも英知の力で繁栄を続けるトリコ城及び城下町は奇跡のように感じられた。
「私、デンキジドウシャが好きなんですよ。」
 唐突にしゃべりだすイスカリオッシュ。
「昔はタイヤもあってゴツゴツして乗り心地も悪かったんですけど、王が改良を加えて今のタイヤがない形におさまりました。ちなみにこのデンキジドウシャは私が結構改造してるので、国で一番スピードが出ます。」
「イスカリオッシュも機械を弄れるの?」
 ニタが尋ねた。
「デンキジドウシャに限りますけどね。そう言った分野は王に適うことはないですから。私は王の内政の補佐です。外交はハーミッシュ第一皇子の担当ですけど。」
「ハーミッシュ第一皇子?」
「ええ、あ、…すみません。ハーミッシュ第一皇子のことは、お伝えできません。王が、その、部外者には話してはならないと言っていましたので…。」
「そうなの…。」
 イスカリオッシュの後ろでニタとクグレックはお互いに顔を合わせた。
「ねぇ、イスカリオッシュ、じゃぁ、マシアスについて知ってる?」
「マシアス…。」
 イスカリオッシュはその名を呟いて押し黙るが、しばらくして後、「わからないですね。」と答えた。満足な返答を得られずに、ニタは不満そうな表情を浮かべた。
 しばらくすると、遠くの方に不思議な機械のような物が設置されているのが見えて来た。沢山のパネルが地面を覆い尽くすように並んでいる。
「なんだあれ。」
 と、ニタが呟くと、イスカリオッシュが得意げに説明をする。
「ソーラーパネルです。簡単に言えば太陽の光をエネルギーに変える機械です。厳しい太陽の光はその熱で生命を干からびさせます。トリコ王国はその干からびた跡地に立っているのですが、その厳しい熱を逆に利用して、今では私達の生きるための力として利用しているのです。」
「へぇ。ニンゲンの生への執念は素晴らしいものだよ。」
 皮肉とも取れるニタの言葉。
「ところでさ、ニタはずっと気になっていたんだけど、トリコ王国はどこに水があるの?こんなに干からびているのに、どこかにでっかいオアシスがあるの?」
「ふふふ。それは研究所に着いてからお話ししましょう。」

 広大なソーラーパネルの森を抜けると、そこには灰色の大きな建物がそびえ立っていた。エネルギー研究所である。
 地下の駐車場にデンキジドウシャを停め、地下駐車場から研究所に入って行った。
 まずは手土産を持って所長に挨拶してから、3人は白衣に身を包み、首からはスタッフカードを下げて、研究所を動き回る許可を得た。
 ニタとクグレックはイスカリオッシュに研究所の案内をしてもらった。研究所の目的はいかにしてエネルギーを効率よく作ることが出来るかということだった。ソーラーパネルから取り込む光エネルギーをいかにして沢山取り込むことが出来るのか、ハードとソフトの面から研究している。更に、エネルギーを使用する際にも効率性が求められる。トリコ王国の機械はエネルギーなしに起動させることは出来ない。無限に注がれる太陽の光であっても、作られるエネルギーには制限がある。機械を起動させるためのエネルギーをいかに低コストで押さえるのか、ということもトリコ王国の課題である。
 そして、砂漠の国の大きな問題たるや、『水』である。
 水はどのようにして入手しているのかというと、トリコ王国では海から真水を調達している。こちらもまた改良すべきポイントは多く存在する。まずは海水を真水に変える装置の改良は常になされている。さらに、真水を送る頑丈なパイプライン、さらに下水の処理、浄化問題に関してもこの研究所で取り扱っている。
 水は安定供給されているので、現状のままでも全く構わないのだが、トリコ王国の威信にかけてテクノロジーの更なる次元を開拓しているらしい。伝統的にトリコ王国には知的探求者が多く存在している。
 他にも様々な説明を受けたが、イスカリオッシュがどんなに噛み砕いた説明を施しても無教養のニタとクグレックには理解できないことばかりで、ただひたすら科学の力の偉大さに感嘆のため息を吐くばかりだった。

 研究所見学が終了し、デンキジドウシャでもと来た道を戻る一行。外は既に日が沈んで暗くなっていた。そんな薄暗い車内で、イスカリオッシュはぽつりと独り言を漏らした。
「最近、王は新型エネルギー開発に勤しんでおられる。一体どんなものなのか、気になって、研究所で調査してみたが、目ぼしい手がかりは得られなかった。国の識者が知識をフル動員して研究に勤しんでいるけど、王の手にかかれば、あっという間に新しい理論を発見し、実践してしまう。王の存在はまるで神のようだけど、…私は国全体が王に依存しているような気がして少し怖くなるんです。」
「…どういうこと?」
 ニタが聞き返した。
「王は王たる資質を持っています。だからこそ心配などすることは杞憂に過ぎませんが、もしも王が間違った方向に進んでいるのならば、誰が止めることができるでしょうか。そして、万が一間違った結果に進んでしまって、取り返しのつかないことになった時、国民は、そして王は、この国で笑顔で暮らしていくことが出来るのでしょうか。」
 イスカリオッシュは続けた。
「例えば、もし今の王が別の何かに入れ替わったとしても、我々はそれに気付かず、王を盲信しつづけてしまう、そんな気がしてなりません。」
 イスカリオッシュはハッとして咳払いをした。明るい饒舌な男イスカリオッシュからぽろりとこぼれた本音にニタとクグレックは思わず顔を見合わせるが、バックミラーでそれを見たかどうかは分からないが、イスカリオッシュはまたもとの気のいい調子で
「なんて、技術発展は素晴らしいことです。それに科学には失敗がつきものですが、手遅れにならないように研究と実験を行っていくのもまた科学なのです。」
と言った。
 
 2016_05_28


**********

 城に戻り、豪華な夕食を食べた後、ニタとクグレックは宛がわれた部屋でのんびり過ごしていた。すると、突然4D2コムが音楽を鳴らし始めた。昨日ディレィッシュが4D2コムから現れた時と同じ小気味良いリズムの音楽だ。ニタは4D2コムを手に取り、手順を間違えないように慎重に操作し、ディレィッシュと接続を取った。
 にこにこ笑顔のディレィッシュの立体映像が映し出される。
『やぁ、昨日に比べて随分起動が早くなったな。』
「お褒めに預かり光栄です。」
 ニタが薄ら笑いを浮かべて、立体映像のディレィッシュに向かって丁寧にお辞儀をした。
『やだなぁ、誰もいないんだからかしこまらないでくれ。』
 一国の主であることを忘れてしまうほどに、気さくに話しかけてくるディレィッシュはまるで古くからの知り合いのようだった。とはいえ人見知りのクグレックが自分からディレィッシュに気さくに話しかけるという気にはならなかったが。
『実験の準備が整った。エスカレベーターを使って私のプライベートラボまで来てくれ。時間は2時間程度で済むだろう。さぁ、おいで。』
 昨晩、一か月の実験の協力を行うことを了承したのだ。立体映像のディレィッシュはなんの穢れもない瞳で、キラキラした視線をふたりに向けていた。ニタとクグレックはそういえば、と思いながら、いそいそとバスルームへ行き、ディレィッシュのプライベートラボへと向かった。
 プライベートラボでは、ディレィッシュが「ようこそ」と両手を広げてニタとククのことを出迎えた。
 初日である今日は、主に基本的なデータ取りから行われた。身長や体重を計ったり、血液検査を行ったり、レントゲン撮影で骨格までも調べられた。クグレックもニタも注射やレントゲン撮影は初めてだったので、緊張していた。
 それから、ニタは体組織をより細かく調べるために、大きな箱の中に入れられた。今まではクグレックと一緒に検査を行っていたので、特に疑うことなく素直に受け入れていたが、ニタだけが大きな箱に入ることになっていたので、ニタは徹底的にこれに反対した。身の危険を感じずにはいられなかったのだ。だが、ディレィッシュはトリコ王国を統べる王である。言葉だけでニタを説得させて、なんとか大きな箱の中に入れることが出来た。
 この検査は30分ほどかかるので、待っている間、ディレィッシュはクグレックと問診を行うこととなった。
「では、クグレックが魔女たる背景というのも知っておきたい。クグレックはドルセード出身だと聞いていたが、こうやって旅に出るまではどのようにして過ごしていたんだ?」
「…ドルセードの北東に位置する辺境の村マルトで祖母と二人で過ごしていました。」
「ご両親は?」
「私が生まれてすぐ亡くなったと祖母から聞いています。」
「病気か何かで?」
「…分かりません。」
 クグレックは両親の顔を知らない。祖母は両親についてあまり話してくれなかった。だが、クグレックは両親がいないことで寂しいと思ったことはなかった。なぜならば、祖母がそれ以上の愛をクグレックに与えてくれていたから。だから、親と言うものに関して彼女は興味を持たずにいた。
「魔法はいつから使うことが出来たんだ?」
「…確か5歳の時に、祖母の部屋で見つけた魔導書を開いたら、物を動かす魔法を使うことが出来るようになってました。」
「魔導書?」
「魔法の使い方が載っている本です。祖母も魔女だったので、魔導書は沢山家にありました。」
「ほう、おばあさんも魔女だったんだな。てことはお母さんも魔女だった、ということになるかな?」
「…それは、分からないです。」
「…なるほど。その魔導書を読むまでは、クグレックは魔法が使えなかったのか?」
「意識して使うことは出来なかったです。ただ、村の人達からはずっと災厄を呼ぶ忌々しい子だと言われてきました。おばあちゃんも私はあまり外には出ない方が良いと言っていたので、あまり出ませんでした。外に出れば皆私のことを気味悪がりますし、それに、なんか悪いモノを呼び寄せているみたいなんです。時々、知らない人の声が聞こえたりして、小さい頃だと熱が出ることも多かったんですけど、おばあちゃんが何とかしてくれました。」
「…ふむふむ。クグレック、そんなおばあちゃんがいたのに、どうして旅なんかに?」
「…おばあちゃんは亡くなりました。…私、おばあちゃんが亡くなって、生きる意味をなくしたんです。村の人達は私を嫌うし、もうひとりぼっちだと思って、死ぬつもりだったんです。家に火を放って、火事に巻き込まれたはずだったんですけど、何故か生きていて。おばあちゃんが生かしてくれたんだ、とニタは言ってたのですけど。ニタがアルトフールを探すから、着いて来てほしい、と言ったので、今はアルトフールを探して、一緒に旅をしています。」
「アルトフールか。アルトフールに着いたらどうするのだ?」
 珍しく饒舌に話していたクグレックだったが、とうとうここで言葉に詰まった。
「どうした?」
 クグレックの変化に眉根を寄せながら、ディレィッシュが尋ねる。
「…アルトフールに着いたら、私は死ぬつもりです。おばあちゃんのところに、逝くつもりです。ニタとは最初から、そういう約束なんです。」
「そうか。黄泉への旅路というところなんだな。」
 クグレックはその言葉に対して何も反応を返さなかった。
「ひとつだけ質問させてほしい。ドルセード王国はかつては剣と魔法が栄えた国だったのだが、とある事件により、魔法は廃止となった。多くの魔法使いが、処刑されるなり拘束されるなりして、ドルセード王国の魔法使い、魔女はほとんどいなくなったというが、クグレックはそのことを知っていたかな?」
 クグレックはそのような話を初めて聞いた。そもそもドルセード王国の魔女事情なんて聞いたことがない。
「その様子だと、知らなそうだね。なら、それでいい。」
 ディレィッシュは腕時計を見つめた。問診に使ったバインダーを机の上に置いて立ち上がり、奥の方で何かをかちゃかちゃさせると、ティーカップを持って戻って来た。
「じゃ、今日はこれで終了にする。ニタが出て来るまで、紅茶を飲んで待っていてくれ。」
 ほかほかと湯気を立てるティーカップをクグレックの前に提供すると、ディレィッシュはニタのデータの確認のため機械を弄り始めた。
 クグレックはティーカップを手に取り、一口啜った。この味はポルカの宿屋でマシアスが提供してくれた紅茶と同じ味のする紅茶だった。わずかな酸味と、深みがある、元気が出て来るような味。
 紅茶を啜りながら、クグレックは自身が何も知らないでいたことを痛切に感じた。
 祖母がクグレックに不自由1つなく(村人からは嫌われてきたが)愛情を与えてくれたから、クグレックは外の世界を知る必要がなかった。
 しかし、実際に外に出てみると、クグレックは世の中の常識すら知らない事に気付いた。世界色んな国があって、色んな文化があり、色々な人がいる。マルトやポルカのように自然と共に生きる文化、リタルダンドの首都アッチェレのような都会の文化、トリコ王国のようなぶっ飛んだ超技術の文化。その中には優しい人もいれば怖い人、悪い人もいる。
 様々な色が世界を成している。クグレックは世界に対してそのような気付きを得た。
 ただ、一つだけ分かっていないことがあった。
 それは自分自身のことだった。クグレックは自分自身のことをほとんど知らない。
 クグレック・シュタイン。O型。3/21生まれ。身長165cm。体重49kg。足の大きさ24.0cm。マルトの村で母方の祖母と共に過ごしてきた。瞳の色は黒に近いヘーゼルブラウン。髪型はおかっぱで真っ黒。祖母は魔女で薬づくりを得意とする。祖母が魔法を使ったことはあまり見たことがない。両親は生まれてすぐになくなったため両親のことは知らない。
 火事に巻き込まれて、死ななかったこと。
 魔女のこと。
 ピアノ商会でのバチバチ(ニタ曰く)のこと。
 そういえば、メイトーの森で出会った紅髪の女からは、祖母を殺したのはクグレックであり、クグレックはその内に秘めたる魔力で災厄をもたらすとも言われていたことを思い出した。その時は女の言葉の意味が分からず、聞き流してしまったが、クグレックは今でもひっかかりを持っていた。
 疑問が沢山湧いて来て、溢れ出る不安の海におぼれそうな心地だ。
 クグレックは心の中で祖母に助けを求めた。

――おばあちゃん、私の存在は一体何なの?教えて。おばあちゃん。私は、何もわからないよ…。

 祖母がいてくれれば、このような不安に陥っても、その暖かな優しさでクグレックを包み、安心させてくれるのに、とクグレックは急に祖母が恋しくなった。常に身に付けている祖母の形見の黒瑪瑙のネックレスを触れてみるが、何かが起こるわけではない。

 祖母はクグレックの目の前で静かに息を引き取り、死んだのだ。


 2016_05_29


**********
 
 それから、ニタとクグレックは、トリコ王国での暮らしを満喫していた。
 高度な技術に包まれる生活は、最初は戸惑いがあったものの、慣れてくるとそれが快適で楽な生活であることが良く分かった。ニタも満更でもない様子で、二人はもうドルセードやリタルダンドの前近代的な生活には戻りたくないという心地になりかけていた。
 昼間は侍女達から、トリコ王国の文化について教えて貰ったり、しきたりや作法、礼儀について教えて貰っていた。客人とは言え、もはや居候の身分でもあるので、周りと波風立たないように最低限の礼儀というところを教える王からの配慮だった。
 そして、夜になると、ディレィッシュのプライベートラボでの実験であった。
 脳波や体の動きなどの調査に入れるので、クグレックとニタは頭から足まで謎の機材を装着して実験に参加した。特に頭に装着したヘルメットのような機械は重い上に頭を適度に締め付けた。ニタもククも動きづらさに悪戦苦闘したが、クグレックに至っては普段よりも魔法の効力が控えめになってしまったが、杖なしで魔法を使った時ほどではなかった。今使える炎の魔法や鍵開けの魔法、幻の魔法などを使って見せ、様々な角度から分析されたようだ。因みにニタは終始機材のことを好きになることはなかった。
 ところが、しばらくすると、夜ではなく昼間から研究の被検体として、王のプライベートラボではなくエネルギー研究所で実験に参加することとなった。王だけでなく、沢山の研究員達から好奇の目で見られるのはあまり気持ちが良いものではなかった。ニタもクグレックもストレスを感じずにはいられなかったが、リラクゼーション設備が整った自室に戻ると、ストレスのことなど忘れてしまった。また、研究員達は皆人が良かったので、だんだんみられることにも慣れて来た。
 そうしていくうちに、日は経って行き、新しい年を迎えることとなった。城では祝宴が催され、大盛況だった。飲めや歌えやの大騒ぎで、とにかく皆楽しそうである。
 そんな中、ニタとクグレックは大広間をこっそりと抜け出し、人気の無い場内を彷徨っていた。
 ニタはクグレックの腕を引っ張って、廊下を駆ける。一度クグレックの杖を取りに自室へ戻った。
「二、ニタ、一体何なの?」
「しー!」
 ニタは口元に人差し指を当てて、クグレックに静かにするように促した。そして声を潜めながら
「あのね、マシアスの居場所が分かったの。」
と言った。
「え?どこにいるの?」
 クグレックもニタに倣って声を潜めながら尋ねた。
 ニタは4D2コムを取り出し、城内図を表示させて、場所を示した。そして、仰々しく「第1皇子の御室。」と言った。
「第1皇子?」
「そう。やっぱり、マシアスは第1皇子ハーミッシュだったんだ。研究所の人や侍女たちに聞いてようやく分かった。マシアスは今、体調が優れなくて寝込んでるんだって。」
「うそ…。」
 クグレックはピアノ商会での銃創が悪化したのかと思い不安になった。
「関係者以外面会は謝絶しているから、みんな詳しいことは知らない。今、奴がどんな状態でいるのか、生きているのか、死んでいるのかはごくわずかな人間しか分からないらしい。」
「…会いに、行くの?」
 クグレックは恐る恐るニタに尋ねると、ニタは力強く黙って頷いた。瑠璃色の瞳は海の様な静かな輝きを湛える。
 もうこれで、ニタの気持ちは動かない。
 ニタは一度決めたら、クグレックが何と言おうと突き進む。
 これはニタの悪いところでもあり、良いところだ。
 クグレックはのんびり新年会に興じたいところではあったし、入ってはいけないところに入るのも良くないとは思っていたが、それ以上にマシアスに会いたかったので、ニタの暴走に付き合うことに決めた。
 4D2コムに表示される地図を頼りにクグレックとニタは『第1皇子居室』へ向かう。
 城内は皆新年会に出払っているのか、警備が一人も見当たらなかった。機械で警備も行っているのかもしれないが、それでも不用心だ。クグレックは静けさに気味の悪さを感じつつニタの後を追った。
 二人は今まで立ち入ったことがない場所までやって来た。手で開くことも出来なければ4D2コムで開錠することも出来ない沈黙の扉が二人の前に立ち憚る。
「こんな時は、魔法の力!魔法は科学を凌駕する!」
 と、ニタはクグレックに向かって言い放った。
 クグレックは戸惑いながらも杖を扉に向け、鍵開けの呪文を唱える。すると、杖からは淡い光が出て来て、光が扉全体を覆った。だが、開錠する気配はない。鍵開けの魔法は機械には対応していないのだろうか、とクグレックは考えたが、考えてるうちに、扉はゆっくりと開いた。
「さすがクク!」
 笑顔でハイタッチを求めるニタに、クグレックは腰をかがめて応じると、掌に柔らかい肉球がぽむと触れた。
「この先にマシアスがいるんだ。行こう。」
 それから二人は2つ程セキュリティーのかかった扉を突破して行った。魔法の力で強引に開けても、トリコ製の科学の結晶であるセキュリティーは何も感知しなかった。魔法は科学を凌駕した。
 今のところは。
 二人はすっかり安心しきった状態で、マシアスの居室へと近づいて行く。

 2016_05_30


「この扉を開ければ、マシアスがいる。」
 二人の目の前に立ちはだかるのは、黄金や極彩色で美しい細密彫刻が施された豪華な扉だった。何よりも高貴で美しいのだ。この扉の向こうにトリコ王国を統べる血が流れる御人がいるのは当然であろう。
 ニタは取っ手を掴むとガチャガチャ引いたり押したりするが、開かない。例の如く鍵がかかっていることを確認すると、ニタはクグレックに目配せをする。
 クグレックは杖を握りしめ、鍵開けの魔法を使おうとしたが、ふと意識を戻した。
「ねぇ、ニタ。マシアスは今、体調が悪くて寝込んでるんだよね。なら、お見舞いの品の1つや二つ、持って来るべきだったんじゃないのかな。それに、体調が良くないのに勝手に部屋に入るのは迷惑じゃないのかな。」
と、クグレックが呟いた。
 ニタはパチパチと瞬きをして、あどけない表情でクグレックを見つめたが
「まぁ、そうなんだけど。でも、ニタは『今』マシアスに会わないといけないような気がするんだ。迷惑にならない程度にお邪魔しよう。」
と、言った。今クグレックが戻りたいと言ったところで、既に決断をしてしまったニタの意思を覆すことは難しい。マシアスには申し訳ないと思いながらも、クグレックは杖を握り直し、呪文を唱えようとした。
 しかし、その時だった。
「この扉を開けるな。」
 荘厳な扉の向こうから聞こえる怒鳴り声。
 クグレックは思わず詠唱を止めてしまった。びっくりしたのだ。
 なぜなら、その声は、二人が会いたがっていた彼の声だったからだ。
「マシアス、そこにいるんだね!ニタだよ!体の具合はどう?」
 ニタは嬉しそうに扉の向こうのマシアスに声をかける。
「…調子は、すこぶる良い。」
「そうか、なら良かったよ。」
 クグレックもほっと胸をなでおろした。扉越しでマシアスの声はくぐもって聞こえるが、元気そうであることに安心した。
「二人とも、トリコ王国はどうだ?」
「うん、まぁ、悪くはないね。科学の力は凄いよ。一生いるつもりはないけど。てゆーか、マシアス、なんで黙ってたの?ディレィッシュがトリコ王であること、マシアスが第1皇子だってこと。すごくびっくりしたよ。本当の名前はハーミッシュって言うんだね。」
「マシアスは偽名だ。自身がトリコ王家の人間であることがばれてはいけないからな。…びっくりさせて申し訳なかった。ただ、ディレィッシュ提案でサプライズ形式にしようとしたから、故意的なモノではあったが。」
「めっちゃびっくりしたんだからね。ククなんて、生まれたての小鹿みたいに震えてたんだから。」
 クグレックはトリコ王国に着いた当初に催された祝宴で無理やり着させられた露出の多い砂漠の国の伝統衣装のことを思い出した。今は侍女達が来ている衣装のようななるべく露出の少ない衣装にしてもらっているが、あの時の恥ずかしさはもう2度と味わいたくなかった。
「ははは。本当に田舎モンだな、クグレックは。」
 クグレックはムッとしたが、マシアスの言うことは事実なので、素直に受け入れて何も言い返さなかった。
「王は、どうだ?二人に失礼を働いてないか?」
 マシアスが二人に尋ねた。
「失礼って、あの人は王様じゃないの。…まぁ、変な人だなとは思ったけど。」
「魔法を知りたがってはいなかったか?」
「魔法?」
「あぁ、そうだ。」
「うん。ククもニタも、今は被検体になって、ディレィッシュの実験に協力してるよ。」
 すると、扉の向こうからマシアスの声は聞こえなくなった。
「どうしたの?マシアス。」
「もう、実験に協力してはいけない。」
「どういうこと?」
「…王は魔法によってより多くのエネルギーを生み出そうとしている。建前はより良い暮らしにするために、高エネルギー発生装置でも作ろうとしているだろう。だが、あの人の内心は違う。大量破壊兵器を作ろうとしているんだ。お前たちは王に多くの手がかりを与えてしまった。だから、兵器は完成してしまうかもしれない。だからこそ、これ以上のヒントを与えてはいけない。もう実験に協力してはいけない。」
「大量破壊兵器…?」
「王はプライベートラボにて兵器の開発を個人的に進めていた。だから、ランダムサンプリとの戦争の件も俺達が知らないうちに水面下で動いていたんだ。黒幕はピアノ商会でもない。王だった。このことに気付いていたら、お前たちを、トリコ王国に連れてくるべきではなかったし、お前たちのことを王に話すべきでもなかった。最後の詰めが甘かった。」

 2016_05_31



 事態はきな臭いことになっているということに、クグレックはようやく気が付いた。ニタに至っては、執拗にマシアスの情報を欲していたし会おうとしていた。ニタの持つ鋭い勘が既にこの事態を嗅ぎ付けていたのかもしれない。
「まさか、ディレィッシュがそんなことを企てていたなんて。」
「あの人は数か月前から変だった。リタルダンドから戻って来てすぐ、あの人のラボに行ったら、偶然大量破壊兵器の資料を発見してしまったのをあの人に見られてしまった。それから俺はピアノ商会での傷が悪化したために療養しているという名目で監禁された。」
「じゃぁ、ククがこの扉を開けてあげるよ!」
 ニタが自信満々に言ったが、マシアスはそれを制止した。
「やめた方が良い。お前たちが魔法でこの扉を開けたら、おそらく、セキュリティーシステムが発動するだろう。城中の兵士たちがここに集まる。」
「でも、ここまで来るのに、魔法でセキュリティを解除したよ?」
「…そうなのか?それはおかしい。魔法で解除したとしても、おそらく扉が開いたということは、データに上がり、緊急事態になるはずなのに。もしかすると…、あぁ、そういうことか。」
「どういうこと?」
「クグレックの魔法が高尚なのか、王がお前たちを陥れようとしているのかのどちらかだ。」
 王は、ディレィッシュは、まるで一国の主だと感じさせないくらいに、気さくでフレンドリーだった。確かに変人なところはあるが、それもまた愛嬌だとクグレックは思っていた。それになにより、クグレックはアッチェレの宿屋で会った時の全てを許してしまえる優しい笑顔が忘れられなかった。あんな表情になれる人が、どうして大量破壊兵器を作り、実の弟を監禁するのだろう。もしここにディレィッシュがいて、マシアスとディレィッシュどちらを信じるかと言われたら、ディレィッシュと答えたくなるほどに、マシアスの話を信じたくはなかった。
「ニタ達は一体どうしたら良い?」
 弱弱しい声でニタが尋ねた。ニタも想定外の事態に憔悴している。
「イスカリオッシュに助けを求めろ。アイツならば、いや、俺を除けば今トリコ王国にいる中で、あいつだけが、ディレィッシュに意見を言える立場の人間だ。イスカリオッシュは、俺が幽閉されていることを知らない。俺の体調が良くない程度しか知らないだろう。」
「分かった。新年会にイスカリオッシュがいたから、話してみる。」
「あぁ。よろしく頼む。…王には気付かれないように。気をつけろ。」
「分かった。」
「健闘を祈る。」
 ニタとクグレックは背を向けて、金細工と極彩色の細密彫刻が模られた荘厳な扉から遠ざかって行った。
 新年を迎えて賑やかに騒いでいる新年会会場へ戻るが、そこにはイスカリオッシュの姿はなかった。会の最初にディレィッシュの挨拶の後に、イスカリオッシュの挨拶があったので、確かにこの会場にいたはずなのだが、どこにも見当たらない。
 ディレィッシュは相変わらず楽しそうに新年会を楽しんでいるというのに。
「お前達、何を探しているんだ?」
 二人の前に王の側近クライドが現れた。相変わらず冷たい眼差しを二人に向けて来る。
「え、うん、イスカリオッシュはどこいったのかなって。」
「イスカリオッシュ様は北部エネルギー発電所に向かった。北部エネルギー発電所は辺境にある。そこで新年早々勤務している者達を泊まり込みで慰労するのが、毎年彼が行っていることだ。物好きな方だ。」
「泊まり込み?」 
 ニタとクグレックはお互いに見合わせた。イスカリオッシュにはすぐに会うことが出来ないことが判明したからだ。
 困ったような表情を浮かべる二人にクライドは眉根を寄せた。
「イスカリオッシュ様も優しいからお前たちは勘違いしてしまうだろうが、あの方もトリコ王家の血が流れる方だ。そう易々とお前たちに時間を与えてやれるわけでもない。」
「む、む。そうだけど…。」
 クライドに正論を言われてしょんぼりとするニタ。
 その後、何故かクライドは二人のそばを離れることなくいたので、なんとなく色々と詮索することが憚られ、二人は成す統べもなく、ただ新年会を楽しむことしかできなかった。ただ、料理はおいしかった。



 2016_06_01


**********

 クグレックはエネルギー研究所を訪れた。
 研究所の人達は、いつも笑顔でクグレックたちのことを迎えてくれる。マシアスはこの実験は大量破壊兵器の製造に繋がる行為だと言っていたが、研究所の人達はそれを知っているのだろうか。クグレックにはこんな良い人達が裏の意図を知ったうえで高エネルギー発生装置の研究をしているとは考えられなかった。
 クグレックは目の前の研究員に試しに聞いてみることにした。
「あの、この研究は、最終的に何に繋がるんですか?」
 研究員は意外そうな表情を見せたが、すぐに笑顔になった。いつもは大人しいクグレックが、珍しく自分から声をかけて来たことに喜んでいた。
「科学に魔法を融合させて、高エネルギー発生装置を作るんだ。今のやり方を改良することで、より多くのエネルギーを出力するんだ。これによって、人々の生活がぐっと良くなる。」
「…本当にそれだけですか?」
「…どういうことかな?」
「…いえ。魔法って、機械と同じくらい万能だけど、簡単に人を傷つけることが出来る力でもあるから…、その…」
「確かに、魔法の力は凄い。でも、国際規約でも、魔法の力は兵力にしちゃいけないという決まりがあるんだ。魔法使いたちは自身の力を利用されるのを恐れて、ほとんどがその力を封印してしまった。だから、クグレックさんの魔力は兵器にはなりませんよ。それに、我が国は極度の鎖国政策を取っているから外の国と交流を持つこともない。なおさら外の国と争う必要性は存在しないんだ。だから、安心して大丈夫だよ。」
 優しく微笑む研究員。ここの研究員は皆優しい。クグレックは少しだけ安心した。
「でも、王も高エネルギー発生装置の研究、製造を指揮して下さってるから、異常なペースで研究も進み、発生装置に至っては既にプロトタイプは出来上がったんだ。王は、研究者としても、技術者としても本当に凄い方だ。」
 その時、クグレックはイスカリオッシュが呟いた言葉を思い出した。

――もしも王が間違った方向に進んでいるのならば、誰が止めることができるでしょうか。

 初めて研究所を訪れた時の帰り道にイスカリオッシュがふとつぶやいたこの言葉。
 もしかすると、イスカリオッシュもマシアス同様にディレィッシュの狂気に気付きつつあったのかもしれない。
 と、その時だった。ドーンという轟音が響くと共に、研究所内はぐらぐらと大きく揺れた。クグレックは立っていられず、思わず床に尻餅を着いた。
「一体、何だ?」
 研究員は机に寄り掛かりながら、辺りをきょろきょろ見回すと、室内に装着されているスピーカーからけたたましい警報音が流れ始めた。

――緊急事態、緊急事態。研究員は速やかに退避せよ。緊急事態、緊急事態…

 室内の灯りもチカチカと点滅を繰り返し、何かが起きていることを暗示する。
「クグレックさん、逃げましょう。このままでは、危ない。」
 研究員は慣れた様子で棚からマスクを取り出すと、まずは自分に装着し、もう一つはクグレックに装着させた。そして、クグレックの腕を取り、避難を行おうとしたその時だった。
 再び大きな轟音がした。さっきよりも大きい。そして、何かを考える間もなく、爆風と熱線が二人を襲った。さらに風圧で飛ばされた室内の机や棚の資料なども容赦なくクグレックと研究員にぶつかる。熱い、痛い、苦しい、痛い、熱い…。
 消えゆく意識の中、クグレックはニタのことを思い出した。ニタは今どこにいるのだろう。一緒に研究所に来たかどうかも思い出せない。絶体絶命の中、クグレックは喉の渇きを感じ、水が飲みたくなった。だが、すぐに意識は事切れた。

 目覚めると、クグレックは外に横たわっていた。
 青空が眩しく、太陽の光が熱い。
 クグレックは体を起こし、自身の体を確認するが傷一つない。爆風に巻き込まれて、死んだとばかり思っていたが、そうではなかったらしい。まるでメイトーの森で目覚めた時のようだ。
 辺りを確認してみると、クグレックは愕然とした。目の前のエネルギー研究所が真っ黒に焼け焦げ朽ち果てているではないか。付近に備わっているソーラーパネルも焼けて焦げて、溶けている。
 クグレックは廃墟と化した研究所を見つめて呆然としていた。
 ふと傍らに転がっているガスマスクに気付いたクグレックはハッとした。先ほどまで一緒にお話をしていた研究員のことを思い出したのだ。彼は無事だろうか。クグレックはガスマスクを手に取り、生命の反応が全く感じられない研究所へ足を踏み入れた。
 研究所は何とも言えない変な匂いがした。焦げた匂いだけではない、苦い臭いや嫌な臭いがする。クグレックは我慢できずにガスマスクを装着して、研究所の中を探索する。壁は崩れ落ち、鉄骨の柱ばかりが残っており、もともとの部屋がどこにあったのかすら分からなくなっていた。床は壁やら資料やらの瓦礫で埋め尽くされおり、歩くのすら困難な状況だ。崩れ落ちた天井の隙間から差し込まれる自然光だけが頼りの薄暗い廃墟で、クグレックは研究員やニタを探す。
 廃墟の中を進み、クグレックはある部屋に入った。先ほどまでクグレックがいた部屋だと感じた。この部屋も他の場所と同様壁は崩れ落ちて、棚や資料などが落ちて足の踏み場もない状態だったが、入り口の近くで、とうとう発見してしまった。他の瓦礫とは異なるその塊。人間ほどの大きさの真っ黒な塊。クグレックは動悸が早くなるのを感じた。すぐそばにはクグレックが装着しているガスマスクと同じものが、真っ黒に焦げた状態で転がっている。
 クグレックは呼吸を荒くさせながら、人の形をした黒いものに触れた。真っ黒に焦げているので、誰なのか判別することは出来ない。ただ、おそらく先ほどまでお話していた研究員であることだけはクグレックの勘で分かった。あんなにやさしい人だったのに、こうなってはただの黒い塊だ。さっきまでは生きていたのに。
 クグレックは胃の中から何かがせり上がって来そうだったのを唾を呑みこんで我慢した。
 野宿をしていた頃、ニタが野生動物を狩って来て、満足げに置いて行くことが多々あったが、どうしても慣れないことの1つだった。冷たく固くなった野生動物の目は何も映さない。光を宿すことなく空を向いているだけで、クグレックはそれが怖くて仕方なかった。
 クグレックは覚束ない足取りでその場から離れる。
 ふらふら廃墟となった研究所内を歩いていると、クグレックは周りの状況にようやく気付いた。そこかしこに落ちている瓦礫は全て研究所内の壁や床、室内にあった機械や棚の残骸だと思っていたが、よく見るとそうではなかった。その中には先ほど見た様な黒い人型の塊も多く存在した。
 この研究所にいた研究員は皆、突然の何かに巻き込まれ、最後の言葉を残すことなく死んでいったのだ。クグレックは耐え切れず悲鳴を上げて、元研究所内を走り、外に出た。しかし、外に出てみても、地獄はまだ続いていた。
 ソーラーパネルの下に人影を見つけ、クグレックは生存者だろうと思って、駆け寄ったが、そこにいたのは服や髪は焼け焦げ、皮膚はドロドロに溶け、うめき声をあげる人の姿だった。クグレックは小さく悲鳴を上げた。
「水、水を…。」
 悲惨な状態だが、目の前の男は生きていた。焦げた匂いの中に感じた嫌な臭いはこの匂いだった。
 クグレックは自分の荷物の中に水はないか探したが、鞄の中身は全て焼け焦げており、水は入っていなかった。
 クグレックは震える声で「ごめんなさい、水は、今ないの」と言った。
 ソーラーパネルの下には、辛うじて生き延びている研究員の姿が多数あった。皆悲惨な状態で、うめき声を上げている。
 クグレックは後ずさりをし、この場から離れようとした。が、クグレックは何かにぶつかった。
 振り向くと、そこにはトリコ王ディレィッシュがいた。
 彼はクグレックと同様に、何の外傷もなく綺麗なままだった。無表情でクグレックを見下ろしている。
「ディレィッシュ…!一体何が起きたの?」
「高エネルギー発生装置が誤作動を起こし、爆発した。」
「爆発…!」
 ディレィッシュはにこりと微笑んだ。
「実験には失敗もつきものだからね。…最高の技術の結晶がこれから出来上がるんだ。多少の犠牲は仕方がない。」
 クグレックは思わずディレィッシュから離れた。狂っている。
「どうした、クグレック。真の完成にはお前の力が必要なんだ。全てを私の支配下に置いて、世界の理を手に入れようではないか。」
 微笑みながら、ディレィッシュはクグレックに向かって手を差し出す。しかし、クグレックは小さく首を横に振り、一歩、また一歩とディレィッシュから後ずさる。
「魔女クグレック、お前はそのためにこのトリコ王国に呼ばれたのだ。さぁ、一緒に行こう。」
 にじり寄って来るディレイッシュに、クグレックは後ずさりをするが、足をもつれさせて、尻餅を着いて転んでしまった。
 近付いて来るディレィッシュに恐怖を覚えたクグレックは体が震えて立ち上がることも出来ない。
 ディレィッシュの背後に何か黒い靄が見えるのだ。その靄は禍々しく忌々しいオーラを発して、ディレィッシュに取り憑いているようだった。

「イヤ!やだ!来ないで!」
 
 照りつく太陽が浮かぶ青空に、クグレックの叫び声が響いた。
 そして、同時に彼女は気付いた。

――あぁ、これは悪夢だ。だって、研究所にはいつもニタと一緒に行っていたのに、ニタがいない。ニタがいない世界は単なる夢に過ぎない。目を覚まさなきゃ。




 2016_06_04


**********

 クグレックはハッとして目を覚ました。
 科学の力でこの部屋は快眠をもたらすために様々な工夫がなされているというのに、嫌な目覚めだ。クグレックは大量の汗をかいていた。
 そして、目覚めると同時にクグレックは声を潜めて泣いた。涙が勝手に溢れてくるのだ。
 とんでもない悪夢に、クグレックは非常に怖い思いをした。そして、それが現実ではなくただの悪夢に過ぎないということに安堵したという二つの思いが複雑に混じった涙がとめどなく溢れて来る。
 夢の中では、実験が失敗して、多くの人が死んでいた。夢だったというのに死の感覚は非常に生々しい現実味を持っていた。もし、マシアスの言う通り、ディレィッシュが大量破壊兵器を完成させ、ランダムサンプリの多くの人達の命を奪ったとしたら、あの地獄絵図が現実のものとなるのだ。なんて恐ろしい。クグレックの涙は嗚咽と共に止まることを知らない。
「クク、どうしたの?」
 すすり泣くクグレックに気付いたニタは心配そうにクグレックの傍に佇む。背中を優しく撫でながら、クグレックの気持ちを落ち着かせた。
「怖い夢を見て。」
 呼吸を落ち着かせながら、クグレックは答えた。まだ気持ちがざわざわして、夢の中身を話す気にはならない。ニタのふかふか感に癒されながら、心を落ち着かせる。
「今日はなんだか大変なことがあったらしい。ニタ達は部屋から出るなって言われたよ。」
 クグレックを撫でながら、落ち着いた様子でニタが言った。
「でも、別に部屋は出れたから、いつものおっちゃんのところに行って来たんだ。」
 いつものおっちゃんとは、トリコ王国でニタが仲良くなったトリコ城の専属料理人のことだ。いつ仲良くなったのか分からないが、トリコ王家に仕えて46年の陽気で気の良いおじさんである。ニタはこのおっちゃんを通してトリコ王国の情報を入手していた。
「おっちゃんが言うには、エネルギー研究所の方で大規模な爆発があったんだって。今は事態の把握や原因の解明、救助活動でてんやわんやな状況らしい。」
「エネルギー研究所で…?」
 クグレックは背筋が凍りついた。先ほど見た夢が鮮明に思い出される。
「なんか、テロリストの仕業かもーって。新年会で浮かれてるところを狙って、城に侵入したとかなんとか。」
「テロ、リスト?」
「政治的、もしくは宗教的信条で、暴力的な破壊活動を行う集団のこと。まぁ、ランダムサンプリが怪しいとされてるんだけどね。」
 ランダムサンプリの人が鉄壁セキュリティのトリコ王国に侵入して、破壊活動を行った。現実での研究所の爆発事件は、部外者からの故意的なものということになる。
 ニタ曰く、一瞬だけトリコ城の全てのセキュリティが機能しなくなった時間があるらしい。その時にテロリストたちは城の中に潜入し、機密情報を持ち去り、研究所に侵入したということだった。マシアスに会いに行った時、セキュリティを解除しても警報が鳴らなかったのは、丁度テロリストたちがセキュリティをダウンさせた時であったのかもしれない、とニタは勝手に推論を推し進める。
 だが、ニタはクグレックが人の話を聞くどころではない様子を見て
「クク、なんか飲む?ココアとかあるよ。」
と、尋ねると、クグレックはコクリと頷いた。しかし、同時に夢の中で焼け爛れた人達が渇きに苦しみ、水を欲する様子がフラッシュバックして、吐き気がしてきた。
「やっぱり、いい。」
 クグレックは首を横に振って、ニタの申し出を断った。
「そう…」
 しょんぼりとするニタ。
 クグレックはニタの様子に気付くことなく、ぼんやりとベッドの上で塞ぎ込む。
 ニタはやるせない様子で、クグレックから離れ、ローテーブルの上にある4D2コムを手に取った。慣れた手つきで操作すると、液晶から立体映像が映し出される。4D2コムではトリコ王国が全国民に向けて、国の情報を提供している。天気情報、催事、事件、政治など、様々な情報が映像付きで提供されるのだ。
 4D2コムは、雲一つない青空の下、真っ黒に崩壊しつくした研究所の様子を映し出す。そこではガスマスクをつけた救助隊が、研究所に取り残されていた人々の救助活動に精を尽くしていたり、その場で応急手当てをしている人達の姿を映し出しながら、沈痛な面持ちで一人の女性が現場の状況を必死に説明していた。

『本日未明に爆発を起こしたエネルギー研究所は建物は大破し、多くの犠牲者が出たとされています。その人数は未だ調査中ですが、数十名の研究者、作業者たちが体にやけどを負ったり、瓦礫の下敷きになり負傷したとされています。救助隊の懸命な救助活動が行われていますが、爆発の原因については今のところ分かってはおりません。年明け早々、凄惨な事件が発生しております。』

 ぼんやりと映像を見つめる無表情のニタ。
 研究所で一緒に実験を行った研究員のの無事が気になっていた。担架で運ばれていたり、応急手当されて横たわっている人の中にいるのか、ニタはじっと映像をみつめていた。
 しばらくして、ニタの背後から衣擦れの音が聞こえた。クグレックが動き出したのだ。のそのそとニタの隣に座り、一緒に4D2コムからの映像を見つめる。
 クグレックは映像を見つめながら、ボロボロと涙を零していた。
「クク…」
 ニタは心配そうにクグレックを見つめるが、クグレックは涙を流してばかりでニタを気にする様子がない。ニタは再び映像に視線を戻した。
 だが、その瞬間クグレックはようやく口を開いた。
「ニタ、これは、テロリストの仕業じゃない。」
 クグレックは涙を零しながらも、抑揚のない声で言った。
「これは、単なる実験の失敗。情報が改竄されてる。」
 クグレックの脳裏には青空の下で不敵に微笑むディレィッシュの姿があった。
 夢だとはいえ、妙に生々しい印象が残っている。夢の中の爆発の瞬間はおそらく虚構のものだが、研究所が爆発したという事実は夢のものと一緒だ。研究所は廃墟と化し、研究員たちは生死も判別できない凄惨たる状態に追いやられた。この事実だけは夢も現実も同じなのだ。
 ディレィッシュがこの爆発に関わりがあるのならば、クグレックにも責任が発生する。
 なぜならば、クグレックは何も知らないとはいえディレィッシュの実験に協力してしまったからだ。魔法と科学の融合がより高度なエネルギーを抽出し、暮らしを良くするという名目に協力したのは、間違いなくクグレックだ。魔法の力の良い部分も悪い部分も知っているクグレックなのに、彼女はいとも容易く実験に協力した。
 それがこの「失敗」という惨状を引き起こした。
 直接的ではないにせよクグレックの力は何の罪もない沢山の人達を殺したのだ。
「…おっちゃんは、ランダムサンプリのテロリストの仕業かも、って言ってたよ。」
 ニタは懐疑的な様子で言った。
「ニタ、ちがう。多分、マシアスの言う通り、ディレィッシュは戦争を望んでいる。」
 クグレックの涙はとめどなく零れ落ちる。ニタは真剣な表情で、クグレックの言葉に耳を傾ける。
「魔法と科学の力は、あっという間に人の命を奪える。それって、凄く恐ろしいことだよ。」
 クグレックは映像を見つめながら、夢の惨状を重ね合わせていた。真っ黒になった人の形をした塊、皮膚が焼けただれ、剥がれ落ちて苦しむ人。ニコニコ微笑んでくれたあの人たちは、もういない。
 クグレックの異常な様子に、ニタは困った表情を浮かべた。ニタには小さくため息を吐くと、優しく諭すような口調でクグレックに話しかけた。
「クク、ククが決めたことであるのならば、ニタは力を貸すよ。もしニタで良ければ、言いたいこと、言ってごらん。」
 そうニタに優しく言われて、クグレックは憂鬱な気持ちが幾分か和らいだような気がした。
 クグレックは少しばかり落ち着いて昨晩見た陰惨な夢の内容を話し始めた。ぽつり、ぽつりと夢の内容を話していくクグレックにニタは横から言葉を挟むことなくしっかりと傾聴していた。
 そして、クグレックが夢の内容を話し終えると、ニタは
「つまり、ククはそんな夢を見たからこの爆発はテロリストの仕業ではなく、ディレィッシュの魔法実験の失敗による爆発だって考えているわけだ。それで、魔法実験の失敗は、協力したククにも責任はあるから、なんとかして大量破壊兵器の開発をやめさせて、戦争を回避させたい、ってことだね。」
 と、まとめると、クグレックはこくりと頷いた。
「じゃぁ、なんとかしよう。ククがそう言うなら、ニタもそうだと思う。テロリストの仕業じゃない。ディレィッシュの実験失敗による、故意的な爆発だった。」
 ニタがクグレックの夢のことを信じてくれたことに、ほっと安心感を覚えた。
「グレックと行動を共にすること。言ったでしょ。ニタはククがいたいところに着いて行くって。ニタにとって、ククの意志が一番重要なんだ。話してくれてありがとう。」
「うん…。ニタ、ありがとう…。」
 クグレックの涙は止まった。クグレックは空いている方の手で涙の跡を拭い、そのふかふかで可憐な姿の相棒を頼もしく思った。
「とはいえ、頼みのイスカリオッシュもいないし、今お城は爆発事件の対応でてんやわんやだ。…もう一回マシアスのところに行ってみようか。」
「うん。」


 2016_06_05


 行動指針が決まった二人は再びマシアスがいる第1皇子居室へと向かう。
 城内は慌ただしく、二人を気に掛ける人はいなかった。特に問題もなく、マシアスが控える金細工と極彩色の細密彫刻の扉に辿り着いた。
「無事について良かった。」
 安心した様子でニタが言った。
「うん。」
 クグレックも安心した表情を浮かべるも、次の瞬間、表情が強張った。
「王の邪魔はさせない。」
 低く冷たい声が二人を捕えた。二人はゆっくりと振り向くと、そこには金髪碧眼の端正な顔立ちの男性が立っていた。トリコ王国の国民が持つ水色の瞳とは異なる青い瞳を持った男。軽装が多いこの国で彼だけ重装備している、トリコ王国にはどこか似つかわしくない存在。
 トリコ王親衛隊隊長クライドだ。
 クグレックが懐かしさを感じるその深い青の瞳はどこか殺気立っていた。
「クライド…?」
 クライドの右手が帯刀してる剣の柄を掴む。
「ここで何をしている。」
「なにをって、ねぇ…。」
 クグレックに視線を遣りながらニタは言葉を濁すが、クライドは二人に鋭い眼差しを向け続ける。
「昨日から何か怪しく思っていたが、これ以上王の邪魔をするな。」
 クライドは二人を睨み付ける。その眼差しの鋭さに、クグレックはおろかニタすらも思わず閉口し、たじろいだ。クライドの深い青の瞳はまるで雪の日の夜の様に冷たくて暗く、そして静寂を湛えていた。
「おい、ニタとクグレックか?」
 扉の向こうから、マシアスの声がする。ニタとクグレックは返事をしたかったが、クライドの気迫に気圧されて反応することが出来ない。
 クライドはちらりと扉を見たが話しを続けた。
「王はトリコ王国を更に繁栄へと導くために、これからランダムサンプリと戦争を始める。だが、これも全てトリコ王国繁栄のため。科学の力は確かに万能だ。しかし、その裏に隠された恐怖を知っておかなければならない。そのためにも、トリコ王国は科学で他を圧倒する。それの第一段階として、独裁国家であるランダムサンプリを制覇し、他国にその強さを知らしめる。」
 深い青の瞳は揺らぐことなく、ニタとクグレックを捉える。その鋭さと圧迫感に二人は圧倒されて、動くことが出来なかった。
「だからこそ、王が進むべき道はハーミッシュが邪魔なのだ。ハーミッシュとイスカリオッシュは王にとって立った二人の血の繋がった兄弟。いくらハーミッシュが邪魔であろうと、王はハーミッシュを殺すことが出来ない。殺せないからこそ幽閉しているというのに、ハーミッシュはどうして王に反していることに気付かない?正しいのは王だ。この国の絶対は王であるディレィッシュだというのに。」
 王ディレィッシュに対する頑なな忠誠心。おそらく、マシアスやイスカリオッシュよりも、クライドはディレィッシュを病的なまでに慕っている。
 王の忠実なる僕であるクライドは鞘から刀剣を抜く。しっかりと手入れされている剣の刀身がきらりと力強く光った。
「ク、クライド、何をする気?」
 ニタが、たじろぎつつも答えた。
「ここで殺されたくなければ、もう二度とハーミッシュに関わろうとするな。ここで誓え。」
 クライドは白く輝くその剣をニタとクグレックに向かって構えた。
「…多くの人の命を犠牲にすることが、ディレィッシュの意志なの…?」
 とクグレックは静かに質問した。
「…そうだ。」
「それって、良くないこと…」
「だが、王の意志だ。」
 間髪入れず、クライドは答えた。
「クライドは、それでいいの…?クライドの意志は、それでいいの?」
 怖気づきながらも、クグレックはクライドに尋ねる。傍にいるニタは、黙ってクグレックとクライドを見つめ、事の成り行きを見守っていた。
「俺の意志は王の意志だ。何があっても、王に追随すること。王がどんな判断をしたとしても。」
 海の底の様に、揺らぐことがないクライドの青の瞳。
 彼はディレィッシュに従うことに関して、並々ならない覚悟を持っていた。

 そもそも、クライドはドルセード王国の上流階級に生まれ、誉れ高きドルチェ騎士団に所属し、エリート街道を突き進めば良い人生だった。それなのに、彼は家名を捨て、国を捨ててまでしてトリコ王国、いや、トリコ王ディレィッシュに完全服従しているのだ。
 2人の間に何があったのか知るところではないが、クライドはおそらくトリコ王国一トリコ王に絶対的な信頼を寄せている。だから、彼の王に対する思いは、決してぶれることはない。
 その時、急にけたたましい警報音が鳴り響いた。ニタとクグレックは慌てて辺りをきょろきょろと見回す。一方でクライドは落ち着いた様子で懐から手のひらサイズのコンパクトを取り出した。クライドの4D2コムである。クライドは4D2コムの液晶に表示されているものを見て、一瞬目を見開いたが、すぐに4D2コムを床に置き、持っていた剣は鞘に納めた。そして、膝をついて静かに傾付いた。
 4D2コムからは、王ディレィッシュの立体映像が現れた。立体映像のディレィッシュは相変わらずの余裕を持った笑みを浮かべている。
『どうも、物騒だね。クライド、ダメじゃないか。勝手な行動は。今は研究所爆発の後処理で大変な時なんだから、勝手に動くのは良くないぞ。それに私が考えているシナリオがあるのだから。』
「大変申し訳ございません。」
 クライドは立体映像のディレィッシュに向かって深々と頭を下げた。
『よろしい。さて、クグレックとニタ、そして、ハーミッシュ。安心してくれ。お前たちの話は、昨日から、しっかり聞いている。トリコ王国の監視体制は素晴らしいだろう。』
 ディレィッシュはにっこりと微笑んだ。
『私は高出力エネルギー装置を製造し、その実験体としてランダムサンプリを選んだ。高出力エネルギー装置を用いた兵器は、どれほどの威力なのか、試すにはとてもいい相手だ。独裁軍事国家(笑)という国際的に不安を煽る様な国家には少し痛い目を見て貰っても良いだろう。』
 ニタは奥歯を噛みしめ、立体映像のディレィッシュを睨み付ける。
『だが、そうなると、ハーミッシュ、アイツの存在は邪魔になる。』
 ディレィッシュはちらりとマシアスが幽閉されている扉に視線をやった。「なにが起きてるんだ、ニタ、クグレック、答えてくれ!」とマシアスが喚く声が聞こえるが、流石に反応できる状況ではない。
『アイツの行動力と目的遂行能力は高すぎる。ピアノ商会の件もほぼ単独で全て片付けた。野放しにしたら、何をしでかすか分からない。ハーミッシュにはいずれ死んでもらう。私とアイツは進むべき方向を違えてしまったようだ。もう取り返しがつかない程に。』
 クグレックはアッチェレの宿屋で安心しきった様子でいたマシアスとディレィッシュという二人の兄弟のことを思い出した。あの時の二人は間違いなくお互いを信頼し合った兄弟だった。
『情報は書き換えよう。ハーミッシュはランダムサンプリのテロリストを招き入れた首謀者だった。昨日、ハーミッシュの部屋までのセキュリティが発砲しなかった理由はテロリストを招き入れるため。テロリストによるセキュリティ開錠のログはクグレックとニタが開けたものとして成立する。二人がここまでやって来た監視映像も、テロリストの侵入に見せかけるために少し手を加えさせてもらった。テロリストなんて虚構の存在にすぎないが、トリコ王国にはこれが真実となる。テロリストを呼び寄せたハーミッシュは、国民の総意思により、信頼を失い処刑されるだろう。』
 ディレィッシュは終始微笑みを湛えたままだった。血の繋がった兄弟の命を奪おうとしているのに、どうしてこのような表情が出来るのか。クグレックは背筋がぞっとするのを感じた。
『さぁ、クライド、クグレックとニタを自室に戻してやりなさい。二人とも騒動が落ち着くまで、部屋で待機だ。こんな血なまぐさいことに、来賓を巻き込むわけにはいかないからね。あ、そうだ、クライド、目を閉じて。』
 と、ディレィッシュが言い終えた瞬間、ディレィッシュが映る立体映像が、急に激しく光った。あまりの眩しさにニタとクグレックは目が眩み、目を開けるのが困難になった。
 その隙を着いて、光を直視しなかったクライドはニタを拘束し、クグレックからは杖を奪った。
「く、ディレィッシュ、マシアスは兄弟でしょ…。どうして、こんなことを…」
 ニタは目を閉じながら呟いた。
『もちろん、苦しいさ。血の繋がった兄弟を謀略に嵌めて処刑するなんてね。だけど、私は最初から、この国を統べると誓った時から、情けは捨てているんだ。ハーミッシュは私とはもう異なる人間だ。血の繋がりなどもはや関係ない。』
「…そんな悲しいこと…。」
 視力がなくなって、真っ暗闇の中で、ニタは一瞬クライドの拘束する力が弱くなったのを感じた。
 しかし、ディレィッシュの
『なぁクライド。そんな私を慰めてくれるのはお前しかいないよ。お前だけは裏切らないでおくれよ』
 という懇願するような甘い声が再びクライドの力を強くさせた。
 ニタとクグレックは視力が一時的に落ちて成す統べなくクライドに引っ張られて、自室に戻された。


 2016_06_06


**********

 それから一週間が経った。
 ニタとクグレックは案の定部屋に幽閉された。名目としては、来賓を危険な目に合わせられないため。騒動が落ち着いたら、解放するという約束であるが、この先どうなるかは分からない。
 1日に1回、部屋の片づけをするために侍女が入って来る以外は部屋の外に出ることが出来なかった。魔法によるセキュリティ解除も出来ない。
 これまでの実験により、クグレックの鍵開けの魔法が解析されて、セキュリティに魔法が効かないように施されたのだ。
 また、外の状況はどんどん悪化していた。
 公式に研究所の爆発はランダムサンプリのテロリストの仕業によるものと発表され、国民はランダムサンプリに対する憎悪を日増しに強くしていった。
 トリコ王国は先月、ランダムサンプリと関係を悪化させ、開戦一歩手前という状況になっていたが、第1皇子であるハーミッシュことマシアスの外交手腕により、なんとか関係改善へ向かうことが出来ていたのが記憶にも新しいところだった。
 しかし、ランダムサンプリ国は一か月もたたないうちに手のひらを反してきたのだ。トリコ王国の民は怒りに打ち震えた。公にはテロリストがどうやってセキュリティを突破したのかということや、実行犯たちが今どこにいるのかも明らかにされていなかった。
 しかし、じきにテロの首謀者は第1皇子ハーミッシュであることが発表され、トリコ国王が断腸の思いで実の弟であるハーミッシュ=トリコを処刑するのだろう。それがトリコ王の描いたシナリオだ。
 なんとも気味の悪い状況だ。
 すべてがディレィッシュの思う通りに進んでいて、手の中にある。クグレックもニタもマシアスもイスカリオッシュもクライドも、トリコ国民も、皆彼の手のひらの上で踊っている。彼はあの優しい微笑みを浮かべて、掌で踊る大切な人たちを見つめているのだろうか。
 クグレックはソファに腰掛けながら、ミルクティーを飲みため息を吐いた。
 その傍ではニタがぼんやりとしながら4D2コムから映し出されるニュースを見つめていた。
 今、二人が外の情報を得るにはこの4D2コムを頼るしかない。毎日来る侍女は常に別の人だ。片づけのたったの1時間で心の距離を詰めるのはさすがのニタでも難しい。
 とはいえ、4D2コムから映し出される情報は、連日研究所での死傷者だったり、テロリストに対する考察だったり、ランダムサンプリという国家に関するマイナスイメージな情報も多く流されていた。この映像を見続けていれば、あっという間に反ランダムサンプリ主義に刷り込まれそうだ。
 情報がいとも簡単に操作されている。そんな印象をクグレックは感じていた。

 と、その時、映像にちらつきが見られたかと思うと、瞬時に別の映像が映し出された。
 毎朝、昼、晩に放映される、トリコ王国の最新情報を伝える番組に切り替わった。
 いつもならば、こんな昼下がりの変な時間に映ることはないスタジオ。
 いつも最新情報を伝えてくれる金髪の美しい女性が手に持った原稿を読み上げる。
『緊急ニュースです。たったいまトリコ王国政府から入った情報によりますと、本日正午過ぎ、トリコ王国北東部の国境で爆発事件が発生しました。ランダムサンプリとの国境付近ということで、ランダムサンプリの工作活動によるものと政府は見ていますが、詳しい状況はまだ分かっていません。先週のエネルギー研究所の爆発事件と合わせて、政府は調査し、声明を出す模様です。』
 真剣な表情で、かつはっきりと滑舌よく原稿を読み上げる女性。
 ニタは「あーぁ。」とため息を吐いた。
「これは、もう戦争が始まっちゃうのかな。」
 どこか他人事のように話すニタ。それは勿論、トリコ王国がニタの故郷ではないのだから、他人ごとになるのは当たり前だ。
「戦争って、こんな簡単に始まっちゃうのかな。」
 クグレックは顔をしかめた。
「そんな、まさか。」
『ここ最近のランダムサンプリからの挑発に関しては、ランダムサンプリに直接抗議すると共に、こちらからも報復制裁を考えている。私の国民の命を巻き込んだランダムサンプリには、それ相応の責任を取ってもらうことで、我々トリコ王国としての誇りを取り戻す。』
 映像から、聞き覚えのある声がした。
 白いターバンを身に付けたトリコ王だ。トリコ王が声明を発表している。
『また、テロリストの行方も未だ分かっていない。トリコ王国の威信を賭け、エネルギー研究所爆破事件の真相を究明していきたい。』
 彼の王のシナリオでは、このテロリストの首謀者はトリコ王国第1皇子ハーミッシュ。
 きっとそのうち、王からハーミッシュが国家転覆を狙う国賊であると吊し上げられ、国民は混乱に陥るのだろう。
 それはいやだ。絶対にいやだ。
 クグレックの心はもやもやとした嫌な気持ちに包まれ、もやもやは心のキャパシティを越え、爆発した。
「ニタ、ディレィッシュを止めよう!」
 クグレックは突然すくっと立ち上がり、普段は出さないような大きな声で宣言した。
 のんびりしていたニタは体をびくっと反応させた。、クグレックを見た。
「クク?突然、どうしたの?」
 ニタから見たクグレックは、いつもの引っ込み思案で大人しい様子のクグレックではなかった。意思をしっかりと固めた、クグレックだった。
「うん、ディレィッシュを止めるの。」
 ニタは目を丸くした。目の前の気弱な女の子が、自ら動こうとしている様子を見て、なんだか泣きたい気分になったが、事態はそんな状態ではない。
「でも、鍵は開かないよ?」
 ニタが言った。
「全身全霊の魔力を込める。」
 そう言って、クグレックは杖を手に取り出入り口のドアの前に立った。
 大きな深呼吸を2回行い、呼吸を整える。そして、ドアに向かって杖を構えると、目を閉じて自身の魔力の流れとドアのロックに意識を集中させた。
「アディマ・デプクト・バッキアム」
 杖から扉へと放たれた霞の様な白い光。常であれば、光を放った瞬間に杖から意識を離しているが、クグレックはどうしてもこの扉を開けたかった。光から意識を離すことなく、集中する。
 ぐるぐると回る魔力の流れ。旧式の鍵であれば、多少はぐるぐるするものの、水が流れ出るように魔力は流れて開錠する。しかし、機械のロックはそうとも行かない。さらに複雑に魔力が流れていく。終わりのないらせん構造の中を突き進んでいくが如くだったが、まるで茨に締め付けられ固まってしまったかのように魔力は科学の力に囚われて開錠することが困難であった。昔、祖母がクグレックの鍵開け魔法に対抗してかけられていた魔法の感覚に似ている。
 が、量で押してみればどうだろう。クグレックはさらに杖に魔力を込めた。光はぐっと照度を増した。
 しかし、どうしても魔力は扉のロックを貫くことはなかった。
 クグレックは杖を降ろして鍵開けの魔法を使用することをあきらめた。
 額は汗をかき、前髪が張り付く程度には、魔力疲弊による疲労度を感じていたが、クグレックは諦めることは出来なかった。思考を巡らせて、脱出する方法を考える。
「この扉を壊せばいいんじゃないの?」
 ニタがすっと立ち上がり、扉に向かって強烈な一撃をお見舞いする。
 ドン!という大きな打撃音がしたが、扉はびくともしなかった。何か特別な素材で作られているのだろうか。と、ニタは首を傾げる。
 ニタの生態実験の際に、ニタの発揮できる最大の力をデータとして取っていたので、ニタの力では開けないように、扉が耐久度を上げていた。いつの間にか頑丈な扉に交換されていたようだ。
「あ、そうだ。ディレィッシュのプライベートラボに行く道はどう?」
「機能するかな?私達はディレィッシュに監禁されているんだよ。」
「やってみなきゃわからないよ。」
 ニタは4D2コムを持って、バスルームへ向かう。
 エネルギー研究所で実験が行われるようになってから、ディレィッシュのプライベートラボに訪れることはなくなったので、久しぶりのエスカレベーターの扉を起動する。
 ピロリーンという音と共にバスルームのバスタブがなくなり、代わりにエスカレベーターの扉が出現した。
 扉に4D2コムをかざすと、扉は自動的に開いた。エスカレベーターの内部は薄暗く、このままでは動かない。ニタは再び4D2コムを弄ると、エスカレベーター内の灯りが点灯し、ブゥンと低い起動音がした。そして、独特の浮遊感を持って動き始めた。
「…反応するとは思わなかった…。」
 ニタは4D2コムに視線を落としながら呟いた。
「え?」
「だって、ディレィッシュはニタ達のこと、外に出したくないはずでしょ。ましてや、ディレィッシュの研究データが残るプライベートラボに無断で入らせたくないと思うし…。なんか嫌な予感。」
「ディレィッシュの手の上で踊らされているんだね。」
「いつからなのかは分からないけど。」
 ニタとクグレックは胸の内に言いようもない不安を抱えながらもエスカレベータ―の到着を待った。
 ガタンと音を立ててエスカレベーターの動きが止まった。
 自動で開いた扉の先には誰もいない。いつもであれば、笑顔のディレィッシュが迎えに出てくれていた。そのせいか分からないがいつもの廊下の青い灯りが無機質で冷たいものに感じられた。
 二人は緊張した面持ちでラボへ続く廊下を歩き、行き止まりに到達した。
 ここは一件行き止まりに見えるが、パスさえクリアすれば目の前の壁が開いてラボに通じるようになっている。傍にある小さな箱の中に暗証番号を入力する装置がついているのだが、ニタはそこではたと動きを止めた。
 このラボへの暗証番号はいつも出迎えてくれていたディレィッシュが入力してくれていたのだ。ニタ達に分かるはずがない。しかも、指紋認証によって暗証番号入力が起動されるため、二人が小さな箱の中の機械をどう弄ろうとも何の反応もなかった。
「万事休すだね…。」
「ここまで来たのに…。」
 がくりと肩をおとして項垂れる二人。と、その時、ニタが持っていた4D2コムがけたたましい音を発した。
 2016_06_07


「う、うえ、何?」
 ニタは慌てて4D2コムを確認した。さらさらと表面を撫でると、4D2コムから声が聞こえて来た。
『ごきげんよう、ペポの戦士ニタと黒き魔女クグレック。』
 ディレィッシュの声だ。
『我がプライベートラボにようこそ。どうしても私に会いたかったのだね。来ると思っていたよ。だが生憎私は爆発事件の対応とそれに対するランダムサンプリへの報復準備で大変忙しい。』
「報復準備って…」
『なお、これは事前に録音しておいたものだ。万一二人が私に会いたくて、プライベートラボまで来た時のために、吹き込み準備しておいた。』
「やっぱり、ニタ達がここに来ることはお見通しだったわけか。」
『エネルギー研究所は吹き飛んでしまったが、同時に進めていたエネルギー高炉の運用は上手く行っている。ここには対ランダムサンプリ用の報復装置が存在するのだが、最後の締めに二人の力を借りたいのだ。3日後、クライドが二人のことを迎えに来る。部屋に戻って、身支度をしてくれ。二人へのメッセージは以上だ。会うのを楽しみにしているぞ。』
 ぷつっという切断音がすると、それ以降ディレィッシュの声が聞こえることはなかった。
「報復装置ねぇ…。クク、どうする?ディレィッシュに会いに行く?クライドが来るから、逃げられないような気がするけど。」
「うん。力を貸すつもりはないけど、ディレィッシュに会うことが出来れば、話が出来るよ。」
「ニタは罠の様な気がするんだけどな。嫌な予感しかしない。」
「それでも、行かなきゃ。」
「分かったよ。…ねえ、クク、部屋に戻ったらやってみたいことがあるんだけど、それだけ協力してくれない?」
「え、いいけど、何をやるの?」
「部屋に戻ったら教えるよ!」
 二人は元来た道を戻り、再びエスカレベーターに乗って、部屋へと戻った。
 そして、ニタはクグレックに“やってみたいこと”を筆談で伝え始めた。言葉にして話してしまうと、どこかで王が聞いているかもしれない。現に扉越しにマシアスと交わした会話は筒抜けであったし、ニタがやってみたいことがばれてしまうと、本当にどうすることも出来なくなる。
 3日間の猶予があったので、二人は静かに、そして気付かれないように入念に策を練り、準備を行った。
 それから約束の3日後になると、朝早くからクライドの来訪があり、二人は10日ぶりに部屋の外へ出ることが出来た。
「いやぁ、やっぱシャバの空気は違いますなぁ。」
 クライドに連れられて城内を歩く二人。クライドは相変わらず無表情で寡黙である。常に右手が帯刀している剣の柄に触れているのは、クグレックとニタが万一逃げようとした際に太刀打ちするための準備だった。彼の剣捌きは音速の様に早く正確である。
 と、その時ニタは手に持っていた4D2コムを誤って落としてしまった。
 カンカンカンと大理石の廊下に大きな音を立てて転がる4D2コム。慌ててそれを追うニタにクライドは猛禽類の様な鋭い視線を向けたが、4D2コムを拾い大人しくニタが戻って来る様子を見ると、再び歩き始めた。
 これがニタの“やってみたいこと”だった。
 そのままクライドは城の駐車場へ向かい、二人をデンキジドウシャに乗せ、自らの運転でデンキジドウシャを走らせた。向かう先はおそらくエネルギー高炉だ。


 2016_06_08


**********

 砂漠の景色はいつも晴れ。雲一つない青空が空一面に広がり、褐色の砂漠とのコントラストを成している。
 クグレックはどれくらいの間この酷く爽やかな風景を眺め続けていただろうか。車窓の景色は美しいものだけれど、同時にかわることのない単調な景色。エネルギー高炉までは研究所よりも倍以上離れている。
 運転するクライドは一切言葉を発しないし、隣のニタもこの緊急事態の中呑気に眠っているので、静かであった。クグレックはこれから果たす責任の重圧で、眠ることなど出来なかった。ずっと緊張状態が続いている。
「クライドさん、クライドさんはどうしてトリコ王国にいるのですか?」
 少しでも緊張状態をほぐすために、クグレックはクライドに声をかけてみた。とはいえ、クライドとの会話もまた緊張するものではあるのだが。
 バックミラーのクライドと一瞬目が合ったかと思うと、クライドは再び運転に集中する。彼からの返答はなかった。予想していたことではあったが、クグレックは悲しくなった。
 だが、しばらくして、クライドは口を開いた。
「王がいるから。」
 クグレックはハッとしてバックミラーに映るクライドに視線を移す。
「昔、約束したんだ。ディレィッシュがどんなことをしても、彼を絶対に守り続ける騎士になると。」
 クライドは表情を変えずに淡々と話した。
「それが自分の生きる理由であり、歓びだ。あの人は私を認めてくれた。外見や家名といった飾り物ではなく、私自身とその力を認めてくれた。だから私はあの人のために生きると決めたのだ。」
 ちらりとクグレックとクライドの視線がバックミラー越しに交差する。クライドは揺らぐことのない強い眼差しであった。
「見たところ、そのペポ族も私と同じだろう。お前のために生きているように見える。」
 呑気にぐーすか眠るニタに移る視線。
 クグレックもニタを見つめた。
 ニタはいつもクグレックの傍にいてくれる。それは二人がアルトフールへ行くという目的があるからであって、クライドのような強烈な忠誠心からではない。
 ただ、ニタはクグレックの友達であり、クグレックはニタの友達である。
 クグレックはニタが悪い方向へ向かうならば、どんな手を使ってでも止める意志はある。
 しかし、ニタはどうだろう。クグレックが自ら行動を起こすことがほとんどなかったので、ニタがクグレックを止めることはなかったが、もしも、万が一クグレックが誤った道を進むとしたならば、ニタはクライドの様に着いて来てしまうのだろうか。
 ニタは祖母と面識があり、何かを知っていて、一緒に居てくれるのかもしれないが、詳しい理由は良く分からない。ニタの優しさに頼り切っていたクグレックだったが、ニタの本心をクグレックはまだ知らない。
 やはり、クグレックは知らないことだらけだ。
「王の行く末が地獄であろうとも、王の意志だ。あの人がそうしたいと望むならば、私は力を奮うまでだ。」
 クライドはゆっくりとハンドルの傍にあるボタンを押した。すると、どこからか音が鳴り出す。ザーザーというノイズ音の中に交じって、女性の声が聞こえる。この滑舌の良い凛とした女性の声は、4D2コムの映像で様々な情報を伝えていた金髪の美女の声だ。

――…先ほど、王国軍はランダムサンプリに対する報復処置を始めました。大陸初となる短距離型高エネルギー発射装置を国境近くの野営地に向けて威嚇発射しました。………

 ノイズ音に交じって聞こえる女性の声は非常に張り詰めた様子だった。
 
「もう止まることは出来ないだろう。戦争は始まる。」
 静かに語るクライド。
「ランダムサンプリも、早い段階から戦争が起こることを察知していたらしい。あちらもすぐに対応してくるだろう。ただ、情報は錯綜しているだろうが。」
 カチと再びボタンを押すと、ノイズ音は消え、再び無音状態となった。
 青空に映える砂丘の中を虹色の粒子を噴射しながら、デンキジドウシャは進んで行く。
 マシアスが身を挺して止めることが出来たはずの戦争はいとも簡単に始まってしまうらしい。
 クグレックは周りが絶望の暗闇に包まれてしまうような心地だった。


 2016_06_11


**********


――ようやく貴女にお会い出来る。素晴らしい器のおかげで、世界に混乱をもたらすことが出来た。貴女の魔を呼び寄せる力は、いとも容易く私を呼び覚ますことが出来た。器に眠り続けるしかなかった俺の力は彼奴如きに吸い取られ続けるだけかと危惧したこともあったが、もうその心配もなかろう。彼奴は俺との融合を受け入れた。あとは貴女の力を手に入れるだけ。貴女の来訪を心待ちにしているよ…

 クグレックはハッとして目を覚ました。突然ディレィッシュの声が聞こえたのだ。
 だが、隣ではニタがすやすやと寝息を立てている。どうやら、夢であった。クグレックは緊張のあまり寝ることも無理だろうと思っていたが、結局寝てしまっていた。
 バックミラーを通してクグレックが目覚めたことに気付いたクライドは相変わらずぶっきらぼうな口調で「あと数分で到着だ。」とだけ声をかけた。窓の外を見遣れば青空は既に茜空に変わっていた。ニタは相変わらずすやすやと眠りについている。
 3人を乗せたデンキジドウシャはエネルギー高炉へと到着した。エネルギー研究所よりも大きく、精製されたエネルギーが保存されるその建物は、研究所以上に無機質で冷たい様相をしていた。
 デンキジドウシャから降りると、クライドは自身の4D2コムを取り出して入り口にかざした。すると、入り口の扉は自動で開き、3人を受け入れた。
「間違っても余計なことをするな。」
 半ば睨み付けるような表情でクライドが二人に声をかけた。
 クグレックはクライドの威圧感に怖気づき、小さな声で「はい…」とだけ言った。
 そして、二人はクライドに案内されて、会議室に通された。そこには多数の机といすが並べられただけの誰一人として存在しない部屋だった。
 クグレックとニタは緊張した面持ちで、部屋の中ほどまで進む。この後、トリコ王ディレィッシュに会うことが出来ると考えると、緊張せずにはいられなかった。
 クライドは二人が会議室に入るのを確認すると、鍵を施錠した。そして、常に帯刀されている剣の柄に手をかけ、その身を鞘から抜いた。手入れされた白銀の刀身がきらりと光る。そして、すぐさま緊張しつつも警戒心がなくなっているニタに向かって、その剣を振り下ろした。
「え!?」
 ザシュッという斬撃音がしたかと思うと、その場に鮮血が広がり、ニタはその場にうつ伏せに崩れ落ちた。
「ど、どうして…?」
 ふかふかの白い背中には赤い血が滲んでいた。息を荒くさせながら朦朧とした意識の中でニタはクライドに向かって呟く。
 ニタの返り血を浴びたクライドは相も変わらず無表情のままだった。そして、クロスを取り出し剣についた血を拭った。
「王からの命令だ。王が必要としているのは魔女だ。ペポ族の戦士がいると少々邪魔になる。」
 クライドは刀身を綺麗に拭き上げると、その身を静かに鞘に納めた。
「まじか…。ニタ、ちょっと油断しちゃったなぁ…。ここでお別れだなんて…。クク、ごめんね…。」
 そう言い残すと、ニタは力尽きがくりと床に突っ伏した。
 クライドは、呆然として立ち尽くすクグレックに視線を移した。顔は青ざめて、カタカタと体を震わせている。まるで小動物のようだ。
「急所は外している。ニタは手当さえ間に合えば助かる。だから、速やかに大人しく指示に従え。場所を変えるぞ。」
 クライドはクグレックの腕を掴んで、無理矢理引っ張って、別の部屋へと連れ込んだ。
「もうじき王の手も空く。しばらくここで待っていろ。」
 そこは応接室で、質の良いソファとローテーブルが並べられていた。
 クグレックはソファに倒れ込み、背もたれに向かってうつ伏せになった。
 ニタが重傷を負った。クライドは手当てをすれば助かると言っていたが、本当に手当てをするのか疑わしい。杖は、クライドに没収されており、ディレィッシュに会う際に返してもらえるとのことだった。また魔法に頼れない状況だ。ニタを助けに行くことも出来ない。
 クグレックは頭の中がぐちゃぐちゃになっていたが、なんとか正気を保とうと必死だった。ピアノ商会では、マシアスが怪我して死にかけただけで、取り乱して何も出来なかったのだ。まだ色んな可能性が残っているのだから、クグレックは何とかして正気を保とうと必死だった。


 2016_06_12


 それから数時間後。再びクライドがやって来た。
「魔女クグレック、王の手が空いた。今から行くぞ。」
 応接室に入ってからずっとソファに逆向きに座っていたクグレックは顔を上げて、ふらふらと立ち上がった。ずっと同じ体制でいたため、前髪に変な癖がついてぼさぼさになっていたが、クライドは何も言わなかった。
「ニタは…」
 生気の宿っていない瞳を向けて、クグレックはクライドに尋ねた。
「応急処置はしたが、万一に備えて強力な睡眠薬を打っているから、数日間は起きないだろう。」
 クグレックはわずかに安心した表情を見せた。ゆっくりと目を閉じ、息を全て吐き出して、深呼吸をした。彼女にはやらなければならないことがある。ニタが無事ならば彼女はもう不安を抱く必要がない。
 クグレックは覚悟を決めて目を見開いた。
「行きます。」
 覚悟を決めたクグレックの様子に、意外そうな表情を見せながらクライドは踵を返した。そして、トリコ王が待つエネルギー高炉最深部まで案内をした。
 エネルギー高炉最深部には多くの巨大なタンクが存在した。また、青色のライトが使われており、独特の雰囲気を放っている。一応冷房は効いているのだが、どことなく温度は暖かい。装置が稼働して熱を発しているため、どうしても温度は高めになってしまうとのだ。
 黄色と黒の「関係者以外立ち入り禁止」という看板が取り付けられた扉を開けると、その先はz\僅かに広がった空間があった。大きさはディレィッシュのプライベートラボ程だ。管理用の数々の機械に囲まれて、そこにトリコ王ディレィッシュが佇んでいた。
「只今連れてまいりました。」
 クライドが膝をつき、かしづいて報告した。
「ごくろうさま。ではクライド、お前は下がっていなさい。“邪魔者”の侵入を防ぐんだ。」
 トリコ王は微笑みを湛えながら言った。
「王の邪魔をする者は皆遠ざけております。しかし一番の危険分子は目の前の魔女です。いつ王が危険な目に晒されるか分からない状況で離れることは出来ません。」
「始末はしていないだろう。不意を突かれない限り、お前ならば邪魔者…達の侵入を阻止することが出来る。決して侵入を許すな。その命を捧げても、だ。」
 クライドは王の意図を理解していない様子だったが、彼にとっては主の命令は絶対なので、静かにその場から立ち去って行った。
「クグレック、私は気付いているよ。クライドの目をごまかせても、私の情報力を侮ってもらっては困る。」
 クグレックはごくりと唾を呑みこんだ。今現在、クグレックが抱えている秘密に目の前のトリコ王が気付いているとなると、非常にまずい。
「ようやく二人きりになれたな。この時を待ちわびていたよ。」
 ゆっくりと近付いて来るトリコ王。
「ずっとずっと、待っていた。黒魔女よ。」
(黒魔女黒魔女って、一体なんなの?)
 クグレックは明らかな嫌悪感を表情に出した。黒魔女という呼称は、なんだか気に喰わないのだ。
「狭間の世界で、2回ほど、会ってはいたがな。」
「狭間の世界…?」
「1度目はエネルギー研究所の爆発の瞬間。2回目は今日、昼間に。2回目は接続が不十分だったためにイメージは送られなかったが。」
 クグレックは昼間のことを思い出すが、ディレィッシュには会っていない。生のディレィッシュも新年会以来1週間ぶりに見たくらいだ。映像上では何度も見かけたが。ただ、実験の時など、ディレィッシュとは2回以上会っていたはずなので、目の前のトリコ王が言っていることは理解が出来なかった。
「俺が昔発明したカノン砲を実践導入して、気持ちが高ぶってしまって、思わず“貴女”に接触してしまった。」
 トリコ王がクグレックのことを“貴女”、自身の呼称を俺としたことに、クグレックは違和感を覚えた。トリコ王ディレィッシュはクグレックのことを名前で呼ぶか、お前と呼ぶ。そして、目の前の男が言う2回目について見当がついた。
 エネルギー高炉に向かうデンキジドウシャの中で、うっかり眠ってしまった時、夢の中で聞こえたディレィッシュの声。2回目とはその時のことを指しているのか。
「なんとなく分かってきたかな?この世界では“夢”とも呼ばれているはずだ。狭間の世界は。」
 ということは、クグレックが見たエネルギー研究所のあの夢も、このトリコ王が見せたことになるのだろうか。部屋に着いていたあの安眠装置はクグレックの夢を支配するためのものとも考えられる。目の前のトリコ王であればやりかねない。
「貴女の眠りが深ければ深いほど、狭間の世界での干渉が楽になる。だが、貴女の狭間の世界には既に別の何かが入り込んでいて、少々干渉しづらかった。遠くの果ての国の少女の姿をしていたが、あれは一体なんなんだ?」
 と、トリコ王に聞かれても、クグレックが答えられるはずもなかった。“狭間の世界”すら今初めて聞いた言葉だ。
「何かしてくるわけでもなかったから、1回目の接触時に早々に追い出したが。」
 1回目がクグレックが見たあの夢を指すのであれば、あれに現れた妙な現実感を持ったディレィッシュは。
「ただ、やはりその時に感じたのは貴女の力の心地良さだった。本当に素晴らしい。」
 うっとりと陶酔しながら語るトリコ王。
「あなたは…一体だれなのですか…?」
 クグレックは顔を引きつらせながら尋ねた。なにかがおかしく、気持ち悪い。
 トリコ王はその問いに嬉しそうににっこりと微笑んだ。
「やはり、分かるか。」
 まるで、母親に褒められたかのように嬉しそうな表情のトリコ王。
「黒魔女。俺は器であるディレィッシュに潜んでいた“魔”だよ。」
 大きく手を広げながら、トリコ王は改めて自己紹介を始めた。
 2016_06_16


 彼の説明によれば“魔”とは、人々の負の意識から生まれた存在である。基本的には魔の集合体は魔物と呼ばれ、意思を持たず、生きる者を襲う。だが、稀に意思を持った魔も存在する。魔は実体を持たないから、器が必要である。そのために魔は、自身に合う器を探し、支配し、身体を得る。既に実体を持ち、名前もある悪魔とは異なる存在らしい。
 しかしながら、目の前の魔は、器であるディレィッシュを支配するのに苦戦していたらしい。彼はこう語る。
「奴はそもそも闇を多く抱えた人間だった。しかし、奴のトリコ王家としての誇りが、その闇をひた隠しにした。だから、俺は奴を支配することなく、潜むことしかできなかった。だが、ある事件をきっかけに奴は俺の力を欲した。だから、俺は奴に条件付きで力を貸すことにした。」
 一つ、魔の力を利用した場合は、自我の一部を明け渡すこと
 一つ、一度魔の力を利用した場合は明け渡した自我の範囲で自動的に使われるようになる
 一つ、魔が器を支配した場合は、二度と魔の支配下を抜け出すことは出来ない
「という、こちらにとって有利な条件で力を貸したのだが、奴はしぶとかった。力をくすぶらせたまま、俺は奴の中で過ごした。あまりにも彼の中で過ごし過ぎたため、俺は消滅しかかっていた。しかし、好機が訪れた。それが、貴女、黒魔女の出現だ。」
 『黒魔女』という言葉にクグレックの背筋は粟立った。
「貴女がリタルダンド共和国の首都アッチェレで力を解放してくれたおかげで、俺は貴女の力を感じ取り、そして、魔の力を強くさせることが出来た。それは、長年続いて来た私と器の自我の均衡を破るには丁度良かった。私は器の自我をゆっくりとずぶずぶ取り込みながら、ようやく融合を果たし、支配することが出来た。彼の闇を全て知る私にとって、彼の意志を引き込むことは容易かった。何度か彼自身も抵抗をしていたようだけど、全くの無駄に終わったね。彼の知識欲、好奇心は自由を求めていた。道徳心や常識といった縛りを超えた自由を求めていたんだ。即ち、彼は心の奥底で新型大量破壊兵器の開発製造を求めていた。彼はその分野に関しては俺の力は必要がなかった。彼に与える俺の力は、彼に知識を与えた。いかにして、兵器を創り出すのか、国を、国民を戦争に向かわせるのか、多くの助言を与えた。俺の力を手にするごとに、俺の意志と彼の自我が融合していく。それは不思議な感覚なのだよ。明らかに俺の意志だけど、彼は自分自身の意志だと信じ切っている。変化に気付けないんだ。」
 愛しそうに自身を抱きしめるトリコ王。奪い取ったディレィッシュのことを懐かしむかの様だった。
「さらに黒魔女との接触もあったから、彼の中の“魔”すなわち私の力はどんどん増大していき、俺は完璧に奴を支配した。もう皆が愛してやまなかったトリコ王ディレィッシュはこの世にはいない。」
 と言って、トリコ王はクグレックの手を取った。そして、膝をつき、その手の甲に静かにキスをした。
 クグレックはトリコ王の唇が手の甲に触れた瞬間、力が抜けるのを感じた。「ひ」と小さな声を出すと、トリコ王はうっとりとした様子でクグレックのことを上目遣いで見つめていた。
「俺がこうして再び外に出ることが出来たのは偏に貴女のおかげなのだ。」
 言い換えれば、トリコ王国に災厄をもたらしたのは黒魔女クグレック。
 クグレックさえいなければ、トリコ王国が戦争の道を歩むことはなかったし、ディレィッシュだって狂うこともなかった。マシアスだって幽閉されることもなかったし、エネルギー研究所の爆発や戦争の犠牲者も生まれることはなかった。
 全ての原因の元は自分自身にあった、と、クグレックは思い込んだ。
「嘘でしょ…。」
 思わずこぼれ出るクグレックの言葉。
 悪いのはクグレックが制作に協力してしまった大量破壊兵器だとばかり思っていたが、現実は異なっていることに気付いたクグレック。
 動悸が激しくなる。耳鳴りもする。眩暈もする。体が震えて来る。胃の中から胃液がせり上がって来るのを感じて、クグレックは部屋の端に駆け込んで吐き出した。
「まだまだ成熟しきっていないようだね。」
 とトリコ王は言い、咳き込みながら吐き続けるクグレックの背中をさすった。だが、その行為はクグレックに更なる不安感を煽るだけとなり、嘔吐感は止まらなかった。それどころか、トリコ王の手がクグレックには気持ち悪く感じられ、これ以上触らないで欲しかった。
 ぐっと近づくトリコ王の体。

――近寄らないで。私に触らないで。離れて欲しい。

 クグレックは心に強く拒絶の気持ちを念じた。バチと大きな音がしたかと思うと、トリコ王が吹き飛んだ。クグレックの周りでは静電気がパチパチとなるような音が断続的に発生している。これがニタが言っていた「バチバチ」なのか、とクグレックは思った。
「ふむ。美しい力だ。」
 トリコ王は吹き飛ばされ、尻餅を着いた状態であるにも拘らず、自身に流れたバチバチを嬉しそうに感じ入っていた。
「黒魔女、貴女は成熟しきっていないがために、自らの力を制御することが出来ない。その証拠がこの魔力の放出だ。」
 吹き飛ばされたトリコ王は再び立ち上がり、ゆっくりとクグレックに近付く。
 クグレックの周りにはパチパチと目に見える形で静電気が発生している。トリコ王はその静電気を間違いなくその体に受けているが、全く気にしていない様子だった。
「何も知らない貴女に教えてあげよう。貴女は黒魔女。人の心に巣食う闇や魔を増幅させ、闇の世界の者達に力を与える存在だ。その力は黒魔女が纏う空気に等しく、意図せずとも発揮されるものだ。黒魔女の力を手中に収めさえすれば、全ての魔を支配することが出来るほどに強大な力を持っている。」
 トリコ王がクグレックに近付くにつれて、静電気は強くなっており、もはや静電気が発生しているとは言えない程にクグレックは放電を始めている。
「黒魔女の力を手に入れるためには、2つの方法がある。1つは魔女と魔の契約を交わす。2つめは黒魔女の血を飲み、心臓を喰らうことだ。ただ、魔女は殺すと灰になってしまうから、特別な力で血と心臓を喰らわなければならない。」
 クグレックから放たれる静電気は一層激しさを増していった。クグレックはしゃがみ込み、体を震わせながらも必死にトリコ王を拒絶する。クグレックから放たれる魔力の放出は確実にトリコ王に当たっているはずなのだが、本人には何の影響も及ぼさない。
 代わりに、静電気はエネルギー制御装置に接触し、次々と装置をショートさせていく。ショートした装置は火花を上げ、黒煙を燻らせた。
 すると、同時に照明が点滅し始め、警報が鳴り響いた。

 2016_06_18


――緊急事態、緊急事態、深部管理ルームにて異常発生、緊急事態、緊急事態…

 かつてのクグレックが夢の中で聞いた警報音と同じサイレンと放送の音声。
 クグレックは、はっとして、今いる現在が夢なのかもしれないという疑問に包まれた。どうやって今の状態を現実だと判断できるのか。そもそも、いまクグレックが存在しているこの世界も、現実かどうかはっきりしていないのだ。彼女は一度炎に包まれて死んだはずだった。だから、彼女にとって彼女のいる世界は現世感を持った黄泉路なのだ。
 ただ、この黄泉路は彼女の意志に関係なく、容赦なく厳しい出来事が襲い掛かる。
 クグレックは、意識を手放そうとしたが、その瞬間、強い力で頭を掴まれたかと思うと、辺りは靄に包まれるようにして暗くなっていた。警報音も次第に遠のいていく。
 それとは逆にクグレックの意識ははっきりしていった。
 クグレックの精神が落ち着きを取り戻し、現状の把握に頭が働き始めたのだ。
 周りは全くの無音状態で、クグレックの呼吸音しかしない。
 そして、真っ暗である。光の無い、闇の世界。
 不思議なことに、クグレック自身はしっかり見える。手や衣服も灯りがある時と同様に視ることが出来るのだ。そして先ほどまでクグレックが感じていた体調不良もなくなっていた。
(ここは、どこなの?)
 真っ暗な中を歩くのは、不安だった。床が視えないこと、それだけでも恐怖感を感じずにはいられない。一歩進めた先に床があるとは限らない。底の見えない奈落かもしれない。
 ふと向こうの方に、誰かがうずくまっている姿をクグレックは確認した。
 狭間の世界と呼ばれるこの空間に誰かがいる。
 暗闇の中を歩くのは怖かったので、這いつくばりながら前進した。向こうに見える人物が気になって仕方がなかった。
 腕だけでなく脚の力も使った情けない形の必死な匍匐前進をして、クグレックはその人物の正体に気付いた。艶のある流れるような金髪にトリコ王国の白い衣装を身に纏ったこの人物はディレィッシュだ。
「ディレィッシュさん、起きてください。」
 クグレックはディレィッシュを揺すった。ディレィッシュは青白い顔をして気を失っていたようだったが、しばらくすると「うう」とうめき声をあげて、意識を取り戻した。
 はじめのうちはぼんやりとした表情を浮かべていたが、クグレックに気付くとゆっくりと表情を和らげた。下がり眉で微笑むその表情はクグレックに会えて嬉しいというよりも、申し訳なさそうな様子だった。
「クグレック…。ごめんな。」
「どういうことですか?」
「闇に潜んでいた『私』を制御出来ずに、ただの客人であるお前を巻き込んでしまった。お前をこんな空間に呼び寄せてしまったのは私の責任なんだ。」
 ディレィッシュは静かに目を閉じた。
「でも、クグレックはここから出なくてはならない。なんとかして、ここから出してやる。」
 再び力強く見開いたその水色の瞳は、弱々しさが掻き消えて、自信に満ち溢れるトリコ王の瞳に戻っていた。
 クグレックはこのディレィッシュこそ、最初にあった時のディレィッシュだということを実感した。きっとマシアスやイスカリオッシュ、クライド達が好きなトリコ王ディレィッシュなのだ。闇だの魔だの言っている狂人とは違う。
「本物のディレィッシュだ。」
 クグレックは思わず心の声を口にした。
「さよう、私がオリジナルのディレィッシュだ。」
 ディレィッシュはクグレックを見つめて、ゆっくりと頷いた。
「じゃぁ、あのディレィッシュは何だったの?」
「クグレックが見たディレィッシュは、ずっと私の中に巣食っていた闇であり、魔だ。クグレックはこんな経験ないだろうか。窮地に立たされた時、湧き出る諦めの思い。嫌な気持ちになった時に感じる相手への嫌悪感。そう言ったふつふつと生れ出るネガティブな感情全てが、彼なんだ。無論、私だって人間だから、負の感情は勿論感じる。ただ、彼は魔なのだ。そう言った負の感情を彼はさらに増幅させようと私に語りかけてくる。だけど、私は彼の言葉を無視し続けて来た。彼の言うことは私の世界にとって、面白くない。つまらないものだったから。」
(…私だったら、ネガティブな方に流されると思う。)
 クグレックは負の感情に従順だった。負の感情に押しやられ、生きることを放棄したし、誰かが瀕死の状態でいても、恐怖が勝って助けるどころか動くことすら出来なかった。 
「でも、彼は素晴らしい力を持っていた。勿論私だって、機械に関する知識や技術は世界一だと思っている。私のことは『天才』と称されるが、その通りだと思っている。統治に関しても正直他国の為政者にも劣らない。だが、彼は情報操作という素晴らしい力を持っていたのだ。」
「情報操作?」
「彼はあらゆる情報を取り入れ、その情報を全て掌握し、動かすことで自分の思う方向へ進むことが出来るのだ。現に彼は全ての情報を操作して、国民の反対に遭うことなく戦争を開始しただろう。」
 トリコ王国に来てから、クグレックとニタはディレィッシュの手のひらの上で踊らされているような感覚がしていたが、その通りだったのだ。彼の術に嵌っていたのだ。これが、魔の力。
「彼の力を初めて使ったのは、18の時、先代が亡くなって王位を継いだ時だった。18の私が王位を継いだことを良く思わない人達が多くてね、私は彼の力を借りながらハーミッシュ達と共に、彼らを排除したんだ。」
「排除?」
「その手段や経緯はクグレックは知らなくていい。ただ、トリコ王国を足蹴にし、私利私欲に生きる者達を、排除した。その時に使ったのが、彼の情報操作。彼の力を借りて輩を無理なく自然に悪に仕立てあげて、トリコ王国の、いや、世の中の正義として排除した。ただそれだけ。私にとって、彼の力はその時だけで十分だった。」
「そうではなかったんだね。」
「あぁ。それを期に彼の能力は私の思考と合体してしまって、私の予期しないところでも、彼の意志を持って能力が発動してしまうようになった。彼の力を使うことは、私が彼に従属することだ。彼に私の自我を分け与えることになる。じわりじわりと彼は私を浸食しながら、この時を持ち込もうとしていたのだろう。」
「つまり、魔の力を使いすぎたがために、ディレィッシュはこの空間に閉じ込められたっていうこと?」
「そういうことだな。私が魔の彼を私の中に閉じ込めていたように、力が逆転したことで彼が私を閉じ込めたんだ。それは魔との魂の契約で定められていたことだから覆すことが出来ない。」
「魂の契約?」
「呪いかな。魔が入り込んできた時にかかっていた呪い。魔をコントロールできなくなるか、コントロールすることを放棄した場合、魔とのポジションが逆転する、という呪いだ。」
 ディレィッシュは見つめていた掌をぎゅうと握りしめ、にこりと微笑んだ。
「彼は、クグレックの存在が彼の力を増幅させた要因だと話していたが、…私はもうそれ以前に、壊れ始めていたのだろうな。だから、私に負担をかけまいとハーミッシュは単独で開戦停止の交渉に行ったし、イスカリオッシュは常に気をかけてくれていた。クライドも、忠義を尽くしてくれた。本当は、もうだいぶ前から皆に気付かれていたんだろうな。」
 ディレィッシュはゆっくりと体を起こし立ち上がった。優しく、それでいて淡々と語るディレィッシュからは不思議と悲嘆的な様子は見えなかった。
 クグレックと目が合うと、ディレィッシュはにっこりと微笑む。こんな暗闇の中に居ても、彼は余裕があるように見えた。
「だが、クグレック、お前はここに居るべきでない。元の場所に戻らなければならない。」
「ディレィッシュは?」
「私か?私は魔に殺されたようなものだ。元の場所の私は死んだんだ。出られない。」
「そんな。」
「そもそもクグレックが来るまで、この場所で意識がない状態だったんだ。外の状況は新年会以降曖昧だ。」
「でも、目が覚めた。戦争、始まっちゃったけど、止めなきゃ。私は、そのためにディレィッシュに会いに来たんだから。」
「戦争は、始まってしまったのか…。」
 悲しそうにディレィッシュは俯いた。
「『無駄に命がなくなってしまうのも嬉しいものじゃない』って言ってたじゃない。私一人戻ったって、戦争を止めることは出来ない。ディレィッシュがいないと、このままじゃトリコ王国は…。」
「もう、どうにもならない。」
 ぴしゃりとディレィッシュは言い放った。今までの穏やかな表情と打って変わって、真顔だった。
「全て彼の思惑通りに動いている。彼が望む破滅の方向へと。彼はトリコ王国だけでなく、大陸全てを混乱に巻き込むだろうことは私が一番よく知っている。それだけの力をトリコ王国は蓄えて来た。彼は世界を好まない。だから、壊す。彼の優秀な情報操作の力を以てして。」
 クグレックはそのような言葉をディレィッシュの口から聞いてしまったことに、ショックを受けた。クグレックはディレィッシュにさえ会うことが出来れば、物事は全て解決すると思っていたのだ。彼の海の様な大らかな心に包まれて安心したかった。だが、それは叶わないようだ。
 すなわちそれは、クグレックが破滅の引鉄を引いた要因であることが確定するということだった。
 ディレィッシュがこんな状態になったのはクグレックが魔の力を増幅させてしまったせいなのだ。
 クグレックは破滅の世界で、終末を呼び込んだ者としての責任を負って生きなければならない。そんな世界に彼女だけ戻すなんて、ディレィッシュも惨いことをする。
 クグレックは顔を真っ青にして懇願した。
「私一人戻ったって、何も出来ないっ。ディレィッシュがいないと、このままじゃ、マシアスだってどうなるか。私は魔法の力で、物に触ることなく動かすことが出来る。だけど、きっと、国を動かすことは出来ない。だから、ディレィッシュがいないと…。」

 2016_07_02


 クグレックがトリコ王国に来てしまったせいで、戦争が起き、沢山の人の命が奪われる。
 彼女の使命はニタと共にアルトフールに辿り着くことだが、無関係の人を不幸にしてまで達成したい目標ではない。
 あまりの責任の重さに、彼女の双眸から、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。
「クグレック…。」
 クグレックの涙に動揺を見せるディレィッシュ。彼は優しいので、泣いている女の子を見捨てることは出来ない、が、クグレックの望みはディレィッシュが叶えてあげることは出来ない故に、たじろぐことしかできなかった。
 やがて、彼の表情は何かを悟ったのか暗くなった。
 すると、辺りの暗闇はゆっくりとディレィッシュを包んでいく。
 それに気付いたクグレックは慌ててディレィッシュに声をかけた。
「ディレィッシュ、どうしたの、体が、なんかおかしいよ。」
 暗闇から引きずり出そうと、クグレックは必死になってディレィッシュの腕を引っ張るが、ディレィッシュはびくともしなかった。悲しそうな表情で、首を横に振る。
「…私など、結局はただの人だったのだ。それがどうして自身の魔に打ち勝てようなどと思ったのか。先代を殺して、国を良い方へ導こうとしたのか。あぁ、反吐が出る。これは驕り高ぶった私への当然の報いだったのだ。」
「違う。違うよ。ディレィッシュなら、何でもできるはず。魔女の私よりも魔法使いみたいなディレィッシュ!そんな悲しいこと言わないで。」
 クグレックは必死だった。彼女の本能が今ディレィッシュを見捨ててはならないことを察しているのだ。
 クグレックは無我夢中で身に付けていた黒瑪瑙ののネックレスを外して、ディレィッシュの腕に巻き付けた。祖母から貰った魔除けのお守り。これがあればディレィッシュから闇を退けることが出来かもしれない。
「諦めないで…。私は、まだ何とかなると思う。違う。何とかしなくちゃいけない。」
 クグレックは一生懸命ディレィッシュを包み込もうとする暗闇を手で払う。しかし、一向にその闇が消える気配がないのでクグレックは焦った。ふとディレィッシュを見てみれば、目を閉じて襲い来る闇を受け入れているように見える。クグレックは頼る当てがなかった絶望感に打ちひしがれそうになった。 
 やがて、クグレックの努力も空しく、ディレィッシュは闇に包まれて消えてしまった。
 クグレックはがくりと膝を床に付け、呆然と虚空を見つめた。

 結局クグレックも何も出来ないのだ。
 国を救うことも、一人の人間を救うことも、何も出来ないのだ。
 クグレックは一生この空間に閉じ込められて、光を見ることなく死んでいくのだろう。
 だが、それはそれでよかった。この空間から出れないことはきっと『罰』なのだから。

 闇はゆっくりとクグレックの身体も侵食し始めた。
 暗闇から真っ黒な複数の手がぬっと出現した。その手はクグレックをゆっくりと包み込む。
 決して心地良い物ではなかったが、クグレックはそれを『罰』だと思い込み、静かに受け入れる。
 黒い手はじわじわとクグレックの左胸へ接近する。服の上からクグレックの体内へ侵入すると、左胸を中心にクグレックの体が黒に染まっていった。肺も血管も骨もクグレックを構成する器官が闇に浸食される、冷たくも温かくもない気味が悪い感覚に襲われ、クグレックは恐怖で呼吸を荒くさせた。
 黒い手がクグレックの心臓を掴んだのだ。
 心臓は黒い手によって引っ張られる。痛みは感じないが、取り出される、という感覚だけは間違いない。いつか体内から取り出されてしまうという恐怖感がクグレックを襲った。
 
 と、その時だった。

「やめろー!変態キング!」
 
 暗闇空間を蹴り壊して、ニタが現れた。一瞬、暗闇空間に警報音と緑色の光が届いたが、すぐにニタに破壊された箇所は暗闇に包まれ再び静寂と暗闇が戻って来た。
 突然の出来事に、暗闇から発生し、クグレックの心臓を掴んでいた黒い手は一瞬漏れこんだ光に掻き消えてしまった。

「ニタ…!」
 クグレックはニタの姿をみて、闇に堕ちかけていた精神を取り戻した。
 傷一つないニタ。さらにその傍にいる人物を目にして、更に安心した。ニタの隣にいる体格の良い金髪の男性。冷たくも優しい空の様な水色の瞳をしたマシアスことトリコ王国第1皇子ハーミッシュがいたのだ。
「クグレック…。」
 優しい表情を見せるマシアス。マシアスの手にはクグレックの樫の杖が握られている。隣でニタはブイサインをしてにっこり笑顔だ。
 暗闇の世界であることに変わりはなかったが、二人の存在はクグレックの心を明るくさせた。
 それと同時にクグレックの頬を一筋の涙が伝った。ニタに再会して、本当に安心したのだ。
「全く、ククはニタがいないと、すぐ泣いちゃうんだから。」
 そう言いながら、ニタはククに近付くと、その体をぎゅっと抱きしめた。
「だって、ディレィッシュは戦争を止めることが出来ないって言うから。もうここから出ることは出来ないって言うから。もうどうにもならないんだなって思って、でも、ニタ達が来てくれた。ニタ達が…」
 クグレックは小さなニタの身体に顔を埋めて泣き喚くので、最後の方は人語を発してはいなかった。
 ニタはやれやれというような表情を浮かべて、泣き喚くクグレックの背中をポンポンと叩いた。
「うんうん、頑張ったよ、クク。なんか変なところにいるけど、意識をちゃんと保ってるし、頑張った。本当に、ここまで『一人』でよく頑張った。」
 と、ニタが優しい言葉を掛けると、クグレックはより一層激しく泣き喚くので、ニタは困った表情でハーミッシュに視線を送り、クグレックが落ち着くのを待つことにした。
 

 2016_07_03



 数分後。クグレックも状態が落ち着いたので、3人はこれからの作戦を練り始めた。
「さて、ククも落ち着いたことだし、今後の作戦を決めていこう。まずは、この状況を説明しよう。」
 ニタが場を取り仕切り、クグレックに話をするように促す。
「私は、クライドさんにエネルギー高炉の最深部に連れられて、そこにいたディレィッシュに出会った。でも、彼はディレィッシュであって、ディレィッシュではない。ディレィッシュの魔だって言ってた。魔は更に力を得るために私の血を飲み、心臓を喰らうと言っていた。それから、私は怖くて、魔力を暴走させちゃって、気がついたらこの暗闇の世界にいた。ついさっきまでディレィッシュ――本物のディレィッシュがいたんだけど、闇の中に消えていった。そしたら、私の周りに黒い手が現れて心臓を掴んで取り出そうとしたの。多分、取り出される寸前だったんだと思う。ただ、ちょうどその時にニタ達が入って来て、黒い手は消えた。」
 クグレックの話を聞いたニタとマシアスは、アイコンタクトを取ると示しを合わせたように黙って頷いた。
「ニタ達はどうだったの?マシアスがいるってことは、イスカリオッシュさんにも会えたってことだろうけど…。」
「うん。無事にイスカリオッシュにも会えたし、なんとかしてマシア、いやハーミッシュを連れ出すことも出来た。イスカリオッシュがいたから、トリコ王国で一番速いデンキジドウシャに乗って来れたから、凄く早く着いたよ。クグレックがニタの幻をつくりだして、クライドをだましてくれたおかげだよ。本当に良く頑張ったね。」
 ニタに褒められてクグレックはほんのわずかに表情を緩ませた。
 トリコ城を出る少し前からクグレックの傍にいたニタは彼女が作った幻だった。クライドに部屋の外に連れ出され、4D2コムを落とした瞬間にニタはクグレックの元を離れ、イスカリオッシュを探しに出たのだ。それからニタとクグレックは別々で行動していた。
 クグレックはクライドにばれないようにニタの幻を作り続け、ニタは単身イスカリオッシュを探し応援を求め、そして、マシアスを助けた。ニタとクグレックだけではどうしてもディレィッシュに対抗することが出来ない。しかし、ディレィッシュの弟であるハーミッシュとイスカリオッシュならば、ディレィッシュに対抗することが出来るのだ。ニタとクグレックはプライベートラボから戻った数日の間に作戦を立てていたのだ。情報を掌握するディレィッシュに気付かれることのないように筆談で作戦を立て、あくまでも極秘に。これが『ニタがやりたかったこと』。
「最後の最後にニタがクライドに斬られちゃったから、ぐったりするニタをイメージして作り続けたのは悲しくて辛かった。離れたところに、しかも私から見えないような場所に幻を維持し続けるのは、凄く疲れたよ。」
「うんうん、よく頑張ったよ。」
「でも、イスカリオッシュさんは…?」
「イスカリオッシュはクライドと一緒にいる。ディレィッシュもなかなか腹に一物を含んだ男だと思ってたけど、イスカリオッシュもなかなかのもんだ。」
「ディレィッシュは相手を包括する広さを持っているが、イスカリオッシュは相手の懐にうまく入り込むことが出来る。末っ子であるが故の愛嬌を上手く昇華させたのがあいつだ。」
 ハーミッシュが言った。おそらく彼の交渉スタイルはピアノ商会などと交渉を重ねて来たことから分かるように、シビアに駆け引きを行っていくスタイルだ。相手と対等な立場で対話を重ねる。
「イスカリオッシュがクライドを抑えてくれたおかげで、ニタ達はエネルギー高炉最深部に行こうとしたら、扉が開かなかった。でも、中ではディレィッシュの独り言と高らかに笑う声が聞こえた。何か嫌な予感がしたから、ニタとハッシュで扉を開けたんだ。そしたら、ここに辿り着いた。」
「ここは、一体どこなんだ?」
 ハーミッシュの問いに、クグレックは困った様子で頭を横に振る。
「分からない。ただ、…もしかすると、ここはディレィッシュの心の世界なのかも。ディレィッシュの魔はディレィッシュの中にいたって言う。ディレィッシュは魔に乗っ取られたから、呪いでこの世界に閉じ込められたらしい。だから、私は出ることは出来ても、ディレィッシュは出ることは出来ないんだって。」
「なんだそれ。」
 ニタが呆れたように言った。
 3人は暗闇の世界で円座になって、脱出方法をひねり出す。
「多分、ニタとマシアスは何も出来ない。不思議空間に対する不思議能力はないから。多分、ククしかこの不思議空間を脱する力を持っている。」
「ただ、分かることは、クグレックは気がついたらこの空間にいた。俺達もそうだ。ただ、俺達はドアを蹴破ったらこの空間に突入してしまった。この空間を壊すことが出来たら、元のエネルギー高炉最深部に戻ることが出来るんじゃないか?」
「空間を壊す?」
 空間を壊す、と言われて、ニタは足元を徐に殴りつけた。が、確かに、足は地に着いている感覚はあるのだが、そこに床という概念は存在しない。ニタの拳はまるで空を裂くように空振るだけだった。
「ニタの力じゃ無理だ。」
 への字口になってしょぼくれるニタ。クグレックはちらりとマシアスに目くばせを行う。マシアスはクグレックの思惑を肯定するように頷いた。
「…でも、私、空間を破壊する魔法、知らないよ…。」
「ピアノ商会で出したバチバチで壊れないかな。あれ、ピアノ商会のアジトをぶっ壊したし…」
 ニタが言った。バチバチ、ディレィッシュの魔曰く、クグレックから溢れ出る制御できない魔力の暴走。
「あれは、魔法じゃないんだけどな。」
 とクグレックは応えてみるも、ディレィッシュの魔が魔力の暴走だと言っていたことから、杖を媒介にして魔力を放出させれば良いのではないかとクグレックは考えた。ディレィッシュの魔法実験のおかげで魔法における魔力放出のコントロールを沢山やらされたので、少しだけ上手になったと密かに思っていたところだった。
 クグレックは自身の魔力を杖から放出する様子をイメージし、集中した。
 すると、杖からパチパチという静電気の音が放たれた。セーターを脱いだ時の様な可愛らしい音だ。クグレックは更に集中し、魔力を込めてみるが、日常で見られる静電気以上の放出は出来なかった。
「…もっとバチバチって言ってたよ。こんな手品みたいな感じじゃなかった。」
 ピアノ商会で唯一クグレックの魔力暴走を目の当たりにしていたニタが言った。クグレックももっと派手に行いたいのに出来ないもどかしさに歯痒い思いをしていた。
 その時、マシアスははっとある出来事を思い出した。
 彼はクグレックの魔力暴走を一撃だけ喰らった時のことを思い出したのだ。
 ピアノ商会で、彼は、ニタを助けに行こうとしたクグレックを力づくで止めるためにクグレックに手をかけようとした。すると、マシアスの身体に強烈な雷撃が身体全体を駆け巡り、そのショックで気を失ったことを思い出した。あの時、ニタ救出を阻もうとするマシアスのことを、クグレックは必死に拒絶していた。更にピアノ商会のボスの部屋で発生した魔力暴走も、おそらくボスに対する強い拒絶が由来となっていたのだろう。
「クグレック、『拒絶』するんだ。多分、魔力暴走はすべて何も寄せ付けようとしない『拒絶』から来ている。この空間を『拒絶』するんだ。」
「空間を拒絶?」
 マシアスの言葉を復唱しながら、クグレックは拒絶をイメージしてみた。クグレックのエネルギーが一番動くのは、この拒絶の瞬間なのかもしれない。彼女は祖母のいない世界を拒絶し、マシアスもニタも守れない世界も拒絶した。さらに、自身の力が破滅への引金をひいてしまう世界に対しても拒絶した。強力な魔力暴走は世界を壊すことが出来ない。ある一定の大きさの水槽に電流を流し、水槽を壊すのではない。果てしない大海に電流を流し、世界を破壊するようなものだ。だから、彼女は毎回魔力をコントロールできなくなり、リミッターを外した最大出力で魔力を暴発させる。
 今回はこの暗闇空間という水槽を破壊すればよい。
「なんとなくわかったかも。」
 クグレックは杖に力をこめ、イメージをした。自身の魔力を制御できない時に発生するあの感覚を。拒絶することで暴発してしまう、魔力のねん出を。クグレックはディレィッシュの魔が作りだしたこの空間を強く拒絶し、魔力を爆列させる、という自身の魔力の流れを想像しながら、杖に魔力を集中させる。
 杖からは光を伴った静電気がパチパチと発生される。次第に電光は大きくなる。
 クグレックは、ディレィッシュの姿をした魔のことを思い出し、魔が持つ波長に魔力の彼女の周波数を合わせた。これで魔力は暗闇の空間に接触できる。

――早く、こんなところから脱出しなければ。

 クグレックは杖に更に多くの魔力を集中させた。
 すると杖からは雷のようなものがバチバチと大きな音を立てて四方に発散された。暗闇の空間は、まるでガラスが割れるかのように、バリバリと割れていった。ニタが蹴飛ばして破壊して突入してきた時の様に破壊されたのだ。空間の境目からは緑の警報灯がチカチカと点滅するエネルギー高炉最深部の景色が覗き、けたたましい警報音も漏れてくる。
 全て粉々に砕け散ると、そこは既にエネルギー高炉最深部であり、目の前にはトリコ王がいた。
 だが、様子がおかしい。
 胸から血を流して膝をついている。フラフラと壁にもたれかかると、クグレックたちを睨み付け、そのままふっと意識を飛ばし、がくりと崩れ落ちた。
 同時にクグレックも意識を失い、足元から崩れるようにして倒れた。が、すぐそばにいたマシアスがクグレックを抱き抱えた。クグレックは一気に魔力を放出してしまったために、魔力疲弊を起こし意識を失ってしまったのだ。

 
 2016_07_10


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――砂上楼君。忘れちゃいけない、母の記憶。母は大いなる源。あなたの起源を忘れないで。


 闇に飲み込まれたディレィッシュは一瞬意識を手放していたが右手の違和感に気付き、再び意識を取り戻した。聞いたことのない女性の声が聞こえた様な気がしたが、良く分からなかった。
 最早そこには、光がなく、自身の身体すら視認することが出来なかった。
 『罪』に呑まれて、彼は死ぬことも出来ずに未来永劫この閉ざされた空間で生き続けなければならないのだ。この状態をはたして生きていると称して良いのか疑問が生じるところではあるが。
 彼は、腕に違和感を感じていたので、腕の辺りをさすった。すると、何かが巻き付いている。手の触覚だけを頼りに、腕に巻き付く何かを感じ取ると、それはすべすべとした石がついたネックレスであろうことが分かった。
 なんだか優しい温かみのある不思議な石だった。
 イスカリオッシュを産んですぐに亡くなった先王妃のような優しい温かみだ。
 ディレィッシュはあまりの懐かしさに泣きたい気持ちに襲われた。久しぶりの感覚だった。
 絶望的な暗闇の世界で、彼は微笑み、そして、涙を流した。

――これから生まれてくる弟のこと、何があってもしっかりと守るのですよ。あなたはトリコ王の後継者としてその名に恥じることなく、常に誇りを持って、トリコ王国を守っていくのです。私の大切な可愛いディレィッシュ。

 幼い時の記憶に残る母の姿は、厳しい時もあるが、いつも優しく温かかった。イスカリオッシュを産んでからすぐに病気で亡くなってしまったが、大好きだった。彼は母が残したこの言葉を胸に今日まで生きてきたが、魔に心まで毒されていて薄れていたのだろう。彼は、今、ようやく自身の生きる意味を思いだした。
 愛する母のため、彼は今日まで心身を尽くしてきたのだ。
 この暗闇の中で、ディレィッシュは意思を取り戻した。

 そして、死ぬことを決意した。
 
 護身用のナイフを懐から取り出し、鞘から刃を抜き取ると、大声で叫んだ。

「聞こえるか、もう一人の私。私は死のうと思う。だから、最期にお前と会話したい。」
 
 ディレィッシュの叫びは暗闇に吸い込まれていった。魔からの反応はなかった。
 ディレィッシュは力なくため息を吐いて、ナイフを逆手に持ち、心臓をめがけて勢いよく自身の胸に突き刺した。
「ぐっ」
 痛みと恐怖により思わず零れるうめき声。呼吸が浅くなり、一刻も早くナイフを外してしまい気持ちに駆られるが、ディレィッシュは落ち着いて深く息を吸い、ゆっくりと吐き出し、気持ちを落ち着けた。
 再びナイフを握る手に力を込め、更に胸を割こうとナイフを動かそうとしたが、そこで動きが止まった。どういうわけかこれ以上動けないのだ。
 その時、ディレィッシュの目前にディレィッシュが現れた。いや、ディレィッシュの姿をした何かと呼んでいいだろう。それは、綺麗な白のトリコ衣装を身に付けているが、胸のあたりを抑え、苦痛に顔を歪ませている。
「気が狂ったか。やめろ。」
 ディレィッシュに似た何かが言った。
 彼の出現に、ディレィッシュはにやりとほくそ笑んだ。呼吸が荒くなり、脂汗が滴るが、それでも彼は余裕そうな雰囲気だ。
「もう一人の私。会いたかった。約束、していたが、やっぱり私は私の身体を明け渡したくはないんだ。私の身体から私がいなくなり、お前の様なものに譲るのはやはり嫌なんだ。私はトリコ王国の王なのだ。トリコ王国の繁栄と平穏を望む最高の存在だ。それを相反するものに明け渡すことは出来ない。お前に明け渡すくらいならば、私は、ディレィッシュは只今を持って生涯に幕を降ろそう。戦争が始まり、世界の秩序は乱された。困難な局面にあるが、私の弟たちであれば、世界を闇に陥れることはないだろう。状況は良くならないかもしれない。しかし、私ではない、トリコ王国の誇りを持たないディレィッシュが生きているよりはマシなんだ。だから、私は、死ぬ。」
 と、ディレィッシュが一気に言うと、咳き込みながら吐血した。
 ディレィッシュは気にも留めない様子で、口周りに着いた血を腕で拭い、ナイフを再び握りしめる。そして、勢いよく自身の胸から、ナイフを抜いた。
 切り口から血が噴き出るが、ディレィッシュは気にせず、ナイフを目の前のディレィッシュに似た何か――彼自身の魔に突き刺した。先程じぶんで刺した刺した場所は、心臓に直結していなかった。少し上にずらすと、動かなくなったのは、目の前の魔が急所であるから、止めたのであろう。
 彼の魔が反応する前にナイフを一突きする。
 一瞬、彼の魔が不思議な力でもう一度ディレィッシュの動きを止めようと試みたようだったが、ディレィッシュは気持ちでそれを払いのけ、魔の胸にナイフを突き刺した。
「ぐっ」
 ディレィッシュはそのまま魔を押し倒す。というようりも、自身も力が抜けて、魔にもたれかかるようにして一緒に倒れた。
 魔もごふっと咳をして、血を吐き出す。恐怖に引きつった表情を浮かべて。
「…なぜ、お前の行動が俺に直接干渉されるんだ?俺の時は全然届かなかったのに…」
「…それは、私が、トリコ王だからだよ…」
「…俺、死ぬのか?」
「…さぁ。私が、死ぬのであれば、お前も道連れにしたいという一縷の希望にかけて、死んで欲しいがな。…ところで、外の世界は、どうだった?」
「希望に、満ち溢れていた。破滅への道を、確実に進んでいる。」
「今、希望と聞こえたが、絶望の間違いではないか?」
「俺にとっての希望も、お前にとっての希望も、同じくらいに溢れている。」
「…深いことを言うね。」
「…」
「…お前は、私だ。人は、誰しも闇を抱えるというのに、私はそれを無視した。悪かったな。」
「…」
「…」
「…俺は、お前のこと嫌いじゃなかったよ。これほどまでに鉄壁の心を持った人間、あったことがなかった。…でも、俺は魔だ。実体が、欲しい。」
「…」
「約束を破ったことは許されない。俺、が許しても、世の中の理が許さない。だから、最期のチャンスをお前にくれてやる。そして、俺は、もうこんなところとは、おさらばする。」
「…」
「最期の力を、貸してやる。ただ、悪魔との契約に、犠牲はつきものだ。その犠牲で十分だから、もう、俺はお前に関わらない。また、別の器を、探そう。」
「…」
「…」
「…」
 ディレィッシュと魔の意識は遠のいていく。暗闇に同じ顔をした二人の男性が血溜まりの中取れている。やがて、その男性の片方が消え、暗闇に存在する男性は一人となった。
 2016_07_11


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 クグレックは暑さと眩しさで目を覚ました。あまりにも眩しいので目を開けることが出来ない。
 頬には粒粒とした何かが当たって痛い。それよりもなにより暑い。
 気持ちを奮い立たせて、クグレックは目を開ける。
 そして、瞳に飛び込んできた情景にクグレックは一気に覚醒し、飛び起きた。
 光あふれる眩しい褐色の風景。太陽が痛いほどに照り付ける砂の景色なのだ。
 エネルギー高炉にいたはずなのに、エネルギー高炉の面影は全くなかった。建物すら存在しない、ただひたすら広大に続く砂漠の景色が広がっていたのだ。
 クグレックは口の中に砂入った砂を吐き出した。
 ディレィッシュに会ったことも、ニタやハーミッシュに再会したことも、夢だったのか分からない。
 ところが、辺りを見回してみると、ふかふかの毛を持った白いぬいぐるみが倒れている。クグレックはニタの傍に駆け寄り、声をかけた。
「ニタ、ニタ、起きて、大変。」
 そう言いながら、ニタの身体をゆすると、ニタは「ううん」とくぐもった声を出しながら目を覚ました。
「なに、クク…。あ。」
 ニタも周りの様子に気が付くと、それはそれはコミカルに飛び起きた。
「エネルギー高炉は?爆発しちゃった?」
「でも、瓦礫も何も残ってないし、ディレィッシュもマシアスもいない。」
「こんな砂漠のど真ん中に取り残されるなんて…。ニタ達、干からびて死んじゃうよぅ。」
 そのニタの言葉を聞いて、クグレックはぞっとした。
 永久に閉じ込められていたかもしれない暗闇の空間から脱出できたかと思いきや、今度は太陽の光が燦々と降り注ぐ砂漠のど真ん中に残された。一難去ってまた一難。
 二人で絶望に打ちひしがれていると、遠くの方からブオーンと低音が響いて来る。
 音のする方に目を遣れば、デンキジドウシャが近付いて来るようだった。
「デンキジドウシャ?…にしてはうるさいし、形が変。」
 デンキジドウシャはクグレックたちの元に止まった。
 このデンキジドウシャは少し大きくてゴツゴツしている。いままで見て来たデンキジドウシャは流線型のスタイリッシュな外見をしていたが、目の前に停まったデンキジドウシャは箱型でごつい印象をうけた。しかもよく見ると、浮いておらず、タイヤが付いた四輪駆動型だった。
 デンキジドウシャからは荷物を背負ったディレィッシュが降りて来た。
 ニタとクグレックは表情を強張らせて、目の前のトリコ王を警戒する。
「ふふふ、すまない。大丈夫だ。何もしない。いや、もう、何も出来ない。」
 ディレィッシュはにっこりと微笑んだ。
「二人には色々迷惑をかけてしまって悪かった。だけど、時間がないんだ。車に乗ってくれ。」
 ニタとクグレックは顔を見合わせる。目の前のディレィッシュは本当に信頼に値する人物なのか信じ切れなかった。
 二人が猜疑心に包まれていると、デンキジドウシャからまた別の誰かが降りて来た。マシアスだ。
「大丈夫だ。本物のディレィッシュだから、大丈夫だ。」
 と、マシアスに言われて、ニタとクグレックはようやく安心することが出来たのだろう、素直にデンキジドウシャに乗り込んだ。
 二人が乗り込んだのを確認して、ディレィッシュとマシアスもデンキジドウシャに乗り込んだ。
 運転席にはイスカリオッシュがおり、バックミラー越しに二人に声をかけてきた。
「…二人とも、無事で何よりでした。では、出発しますね。」
 助手席にマシアス、後部座席にはニタとククとディレィッシュを乗せ、デンキジドウシャは発進した。ブオオンというエンジン音と共にデンキジドウシャは進んで行く。耳障りではないが、少々気になる音だった。
「旧式のクルマか。」
 ディレィッシュが言った。
「えぇ。そうなりますね。そういう世界なので仕方がないです。燃費も悪いし、エンジン音も騒々しい。まぁ、日没までには国境に辿り着くと思いますけど。」
 イスカリオッシュが答えた。
「シートも堅いし、あまり長く乗り続けると疲れるな。」
「ふふふ、そうですね。」
 イスカリオッシュは微笑みながら答える。
 クグレックはイスカリオッシュと談笑するディレィッシュをじっと見つめた。魔のディレィッシュなのか、本物のディレィッシュなのか分からなかったからだ。
 そんなクグレックの不安な視線にディレィッシュは気付き、クグレックに向かってにこりと微笑んだ。クグレックは思わず
「本物?」
 と呟いた。
「あぁ。おかげさまで、取り戻せた。トリコ王国も、“私”も。」
「…。」
 クグレックは、まるで夢でも見ているかのような心地になってしまい、言葉を発することが出来なかった。ディレィッシュがこの現実の世界に存在するのだ。闇に取り込まれて、もう二度と会えないのではないかと怖くなっていたが、そうではなかった。再び会うことが出来た。
「でも、申し訳ないな。トリコ王国に永住の件は亡くなってしまった。」
「…」
 クグレックはもともとトリコ王国に長居はするつもりはなかったので、別に謝らなくても良いのに、と心の中で思った。
 だが、ディレィッシュがあえてそんなことを言うのは、結局戦争は止められず、どうにもならないからこの夢の様なトリコ王国では過ごせないということなのか。
「…私は、生きて戻って来ることが出来たのだが、…だが、この世界にはいない存在なのだ。」
「どういうこと?」
 ニタとクグレックは首を傾げた。
 2016_07_13


「いま、この世界は『ディレィッシュとハーミッシュが存在しなかった世界』なんだ。」
 クグレックはさらに首を傾げ、混乱した。
「私は、ある賭けに出て、魔を自身から追い払うことが出来た。だが、それはそもそも双方共倒れの方法で、消滅したくなかった魔は最期の力を使って、お互いに生き残る道を取ったのだ。それが、彼の究極の情報操作。彼は今の世界を『ディレィッシュとハーミッシュが存在しなかった世界』に書き換えた。書き換えた、というか、吸い取られた、というか。私達は生きてはいるが、私達の存在は誰一人として、知らない。それは、私達が存在しない世界だからだ。」
「え?」
「本当は私だけであってほしかったのだけど、書き換えるためのエネルギーとして私の情報は全て持って行かれたのだ。ただ、私の情報だけでは足りずに、ハーミッシュの情報も必要となって、ハーミッシュまでもが犠牲になってしまった。」
 クグレックは混乱した。一眠りしていた間に、こんなにも簡単に、そして軽率に、世界が変わってしまうことがあり得るのだろうか。もともとディレィッシュは変わった性格をしている。クグレックは、彼が変な冗談を言っているのだと思わずにはいられなかった。
「そ、そんな。じゃぁ、トリコ王国はどうなったの?」
 ディレィッシュはにこりと微笑んだ。
「無論存在している。私が生まれる前からトリコ王国は存在していたのだ。私がいなくなろうと、トリコ王国は存在し続ける。そして、イスカリオッシュが国王となり、トリコ王国は永劫繁栄し続けるだろう。私が存在しないが故に、ランダムサンプリとの諍いもなかったことになった。」
「でもディレィッシュたちはどうなるの?」
「今、この世界のトリコ王国の王はイスカリオッシュだ。我々はトリコ王国民でもなければ、何でもない。」
 後部座席に座るクグレックとディレィッシュの間のニタが話に混ざって来た。
「ねぇ、イスカリオッシュが王様なら、トリコ王国国民にしてもらえばいいじゃん。元兄弟ってことで。別に何でもない存在になる必要はないんじゃない?」
「それが、ダメなんだ。」
 ディレィッシュは笑みを湛えるも、どこか寂しそうな表情であった。
「イスカリオッシュも今日が終われば私達がいた記憶を失くして、世界と同調する。トリコ王国がセキュリティレベルが高いのは私が生まれる前からのことだった。だから、身分も身内もいない私達がいたら、部外者として処分の対象になるだけだ。」
「だから、私は最後のお手伝いですよ。私は、……大好きな兄たちのこと、忘れたくないんですけどね。」
 しみじみと語るイスカリオッシュ。しかし、クグレックはバックミラー越しにいつも朗らかなイスカリオッシュの表情が、静かに曇っていく様子を見逃さなかった。
「でも、イスカリオッシュだけなんだ。この時間を与えられたのは。他の皆はもう、私達のことなど知らない。だから、今日中に私達は、トリコ王国を離れなければならない。」
「その後は、どうするの?」
「お前たちと一緒にアルトフールを探すよ。」
「え!」
「ほら、ペポ族と年頃の女の子じゃ色々危険だろう、だから、私達がボディガードになってやるんだ。」
「ディッシュ、お前は誰かを守れるくらい、体力もなければ腕っぷしもないだろう。」
 助手席に乗っていたマシアスが後ろを向いて呆れたように言った。
「ははは、そうですね。王様じゃないディレィッシュ兄さんはただのもやしっ子ですね。」
 それにイスカリオッシュも同調して、笑顔になった。
「その代わり、天才的な頭を持っていたから、トリコ王国をあそこまで発展できたんです。あなたがいなければ、デンキジドウシャだってこの通りうるさいし、燃費も悪い。シートだってふかふかじゃない。」
 つまり、ディレィッシュの頭はトリコ王国を技術面で大きく発展させた。ディレィッシュがいない世界では、テクノロジーを発展させる人間がいないが故に、デンキジドウシャもそこまで快適なものにはならず、同時にエネルギー対策というのもディレィッシュの時代ほど整っていない。
 だから、エネルギー高炉はなくなり、その更地にクグレックとニタは眠っていたのだ。
 静かになるとイスカリオッシュは寂しそうな表情になる。刻一刻と迫る兄弟との別れの時間が怖いのだろう。
「ねぇ、マシアスは、どう思っているの?自分の存在をなかったことにされて、嫌じゃないの?」
 ニタがぽつりとマシアスに尋ねた。それはクグレックも気になっていたことだった。
「まぁ、寂しいな。だけど、俺の存在までで済むのならなにも問題はない。俺の存在がなくなるだけで、どん底の状態を迎えるトリコ王国が元に戻ったんだ。それに、王位はイスカリオッシュが継いでいる。なにか問題でもあるのか?」
 きょとんとしながら聞き返すマシアス。
「いや、だって、住む場所とかなくなるんだよ。嫌じゃないの?」
「…別に、なんの気兼ねもなしに王宮暮らしから離れられるのは正直嬉しくもある。自由に生きるのが夢でもあったから。」
「私もだ!」
 嬉しそうに同調するディレィッシュ。
「いや、兄貴は多分庶民の暮らしには文句垂れまくると思う。そうじゃなきゃ、あそこまで技術を発展させようとしない。生来面倒臭がりなんだ、」
「いや、そんなことはない。私だって、自由に暮らしたかった。」
 その言葉を聞いたマシアスは一瞬はっとして口を噤んだ。確かに、ディレィッシュは王として生き続けて来た。そこに彼にとって本当に自由な時間など存在しなかったのかもしれない。
「…まぁ、自分で決めた道だし、自由に進めばいいじゃないか。」
 マシアスが申し訳なさそうに言った。王の弟ではなく、ディレィッシュの弟として、マシアスは彼の幸せを望みたかった。これまでトリコ王国のために費やしてきたのだから、彼は本当の意味で自分のために時間を使うべきなのだ。今までの彼は小さなプライベートラボでのみ自由を許されていたが、もう、そうではないのだ。
「あぁ、私の人生、まだまだこれからだからな。機械いじりだって、その気になればいつだってできる。」
 嬉しそうに語るディレィッシュ。
「あ。そうだ。」
 マシアスが再び振り返って、後部座席に向かって声をかける。
「なんだ?ハーミッシュ。」
「…あぁ、それでいいんだ。ニタとクグレック、俺の名はハーミッシュだ。訳あって、マシアスという名を使っていたが、それはただの偽名だ。…もしよければ、俺のことはマシアスではなく、ハーミッシュと呼んでくれないか?名前だけが俺の最後の証だから。」
「ハーミッシュ…。」
 ニタが呟く。が、ニタの眉間には皺が寄って行った。
「ハーミッシュも、ディレィッシュも長い。呼びづらい。」
 不機嫌そうな表情で、ニタが言った。
 マシアス、ことハーミッシュは、はははと笑いながら
「じゃぁ、俺のことはハッシュと呼べば良い。ディレィッシュも長いから、ディッシュでいいんじゃないか?」
と提案すると、ニタはそれを「分かった」と承諾した。
「じゃぁ、クク、この身寄りのない兄弟も一緒にアルトフールに連れて行ってあげようか。」
 ニタが言った。
 クグレックは「うん」と大きく頷いた。
 奇妙な運命ではあるが、これも何かの縁なのだ。
 彼らは当然の如く運命を受け入れる。生まれ故郷や兄弟、大切なものを一挙になくすことになった二人だったが、彼らはその困難を楽しんですらいるようだった。その様子をみたら、クグレックも二人と共に歩みたくなった。
 依然としてアルトフールがどこにあるかは分からないままだが、この二人がいてくれれば心強い。特にハッシュは良識もあるし、これまでずっと二人のことを助けてくれた。ディレィッシュだって、非常に博識だ。きっといろいろなことを教えてくれるだろう。
 
 還る場所がない4人は還る場所を探しに行く。
 



 2016_07_14


********

 そして、日が沈み、デンキジドウシャは国境ゲートまでやって来た。
 国境ゲートには大きな壁がそびえ立ち、何人の侵入も許さない。
 本来であれば、トリコ王国兵が国境ゲートで常に監視の目を光らせているが、イスカリオッシュの指示で、全員待避させた。その代わり、トリコ王国軍団長クライドが待機していた。ディレィッシュがいない世界では、彼は親衛隊ではなかった。そして、既に、ディレィッシュたちの記憶もなくなっている。クライドの青い瞳はイスカリオッシュが連れて来た4人の来賓を怪訝そうに見つめていた。
「この者達は?」
 クライドがイスカリオッシュに尋ねる。
 イスカリオッシュはにっこりと微笑みながら
「私の大切な人達です。大切、いや、愛する人たちですね。クライドもそうでしょう。」
 といった。クライドは理解出来ないと言うように眉間に皺を寄せた。
「これから起きることは、私とあなただけの秘密です。覚えていないかもしれませんが、クライド、あなたはこの御方を敬愛していました。だから、しっかりと送り出してあげてください。」
 クライドは不快そうな表情を浮かべて、イスカリオッシュを見つめた。
 警戒心を隠すことのないクライドだったが、ディレィッシュは気にすることなくふらふらとクライドに近付く。
「クライド、…ありがとう。故郷を捨てて、私を選んでくれて。お前は私の唯一の“友達”だった。」
 ディレィッシュはにやりと悪戯っぽく微笑んで、クライドの頭をぽんぽんと撫でた。
 クライドは終始ディレィッシュのことを睨み付けていたが、不思議と自身の頭を撫でる手を払いのけることはしなかった。
 ひとしきり撫で終えると、ディレィッシュはゲートにある装置を弄り始めた。彼が存在していた頃よりもグレードが落ちたセキュリティシステムであれば、ハッキングは可能だった。だが、それは今この世の中ではディレィッシュしか出来ない。トリコ王国のセキュリティシステムに引っかかることなく、ゲートは開錠した。
「さ、行こうか。」
 ゲートが開くと、ディレィッシュは飄々とした様子で歩き始めた。
 ニタとクグレックは小走りでその後に着いて行った。一方でマシアスは、イスカリオッシュと抱擁を交わしていた。もう間もなく2人の兄の記憶を失くしてしまう弟を、もう二度と会うことのないだろう弟と別れを惜しんで必死に抱きしめていた。
「ハーミッシュ!」
 ディレィッシュに呼ばれ、マシアスはイスカリオッシュを離して、背を向けて歩き始めた。
 イスカリオッシュは4人の後を追った。
「私の大切なディッシュ兄さんとハッシュ兄さん!私はもうじきあなた達のことを忘れてしまうけど、それでもトリコ王国の民として、貴方たちから受け継いだトリコ王国の意志を守っていきましょう。だから、安心してください。安心して生きて、生き延びて下さい!」
 イスカリオッシュは力の限り叫び尽した。
 そんなイスカリオッシュの様子を二人の兄は微笑みながら見つめる。そして、大きく手を振り
「頑張れよ!」
 と返した。
 その瞬間、ゲートはガシャンと大きな音を立ててしまり、静寂が戻った。


「…私は、何故ここに?」
 トリコ王国国王イスカリオッシュがハッとした様子で言った。
 クライドはトリコ王に近付き、何も言わずにそのまま傍に佇んだ。
「クライド?…クライド、あなた…」
 トリコ王イスカリオッシュはクライドのほうを振り向き、そして、驚いた。
 冷静沈着でいつも寡黙、感情を滅多に表に出さないクライドが涙を流していた。
 クライドはイスカリオッシュが驚いたことで初めて自身が涙を流していたことに気付き、慌てて涙を拭う。しかし、涙はとめどなく溢れて来た。
 イスカリオッシュもつられて涙を流した。
「あぁ、なんだか私は甘美な夢でも見ていたようですね。さぁ、城に戻りましょう。運転は私にさせてください。」
「王、あまり、城を抜け出すのはよくありません。」
「ふふ、そうですね。」
 そして、二人は旧式のデンキジドウシャに乗り込んで、城へと戻る。
「クライド、なんだか私は、なにか大切なものを忘れてしまったような気がするんです。不思議な感じですね。」
 クライドに話しかけたところで、望む返事が返って来るどころか返事が返って来ることも稀だった。それでも、トリコ王は胸の内を明かしたかった。
 クライドは沈黙を貫くが、しばらくしてぽつりと「不思議と自分も同じ気持ちです。」と答えた。
 イスカリオッシュと同じ水色の瞳を持った優男に頭を撫でられた時、とても懐かしい気持ちになった。クライドもなにか大切なことを忘れてしまったような気がして、どこか落ち着かない。不思議な気持ちだった。
 箱型のデンキジドウシャは大きなエンジン音を発して夜の砂漠を駈けて行く。
 誰かが欠けてしまったが、トリコ王国は正常に時間を進めて行く。

 歴史に残ることのないトリコ王が望むかたちで。






――第4章、完。
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