彼の説明によれば“魔”とは、人々の負の意識から生まれた存在である。基本的には魔の集合体は魔物と呼ばれ、意思を持たず、生きる者を襲う。だが、稀に意思を持った魔も存在する。魔は実体を持たないから、器が必要である。そのために魔は、自身に合う器を探し、支配し、身体を得る。既に実体を持ち、名前もある悪魔とは異なる存在らしい。
しかしながら、目の前の魔は、器であるディレィッシュを支配するのに苦戦していたらしい。彼はこう語る。
「奴はそもそも闇を多く抱えた人間だった。しかし、奴のトリコ王家としての誇りが、その闇をひた隠しにした。だから、俺は奴を支配することなく、潜むことしかできなかった。だが、ある事件をきっかけに奴は俺の力を欲した。だから、俺は奴に条件付きで力を貸すことにした。」
一つ、魔の力を利用した場合は、自我の一部を明け渡すこと
一つ、一度魔の力を利用した場合は明け渡した自我の範囲で自動的に使われるようになる
一つ、魔が器を支配した場合は、二度と魔の支配下を抜け出すことは出来ない
「という、こちらにとって有利な条件で力を貸したのだが、奴はしぶとかった。力をくすぶらせたまま、俺は奴の中で過ごした。あまりにも彼の中で過ごし過ぎたため、俺は消滅しかかっていた。しかし、好機が訪れた。それが、貴女、黒魔女の出現だ。」
『黒魔女』という言葉にクグレックの背筋は粟立った。
「貴女がリタルダンド共和国の首都アッチェレで力を解放してくれたおかげで、俺は貴女の力を感じ取り、そして、魔の力を強くさせることが出来た。それは、長年続いて来た私と器の自我の均衡を破るには丁度良かった。私は器の自我をゆっくりとずぶずぶ取り込みながら、ようやく融合を果たし、支配することが出来た。彼の闇を全て知る私にとって、彼の意志を引き込むことは容易かった。何度か彼自身も抵抗をしていたようだけど、全くの無駄に終わったね。彼の知識欲、好奇心は自由を求めていた。道徳心や常識といった縛りを超えた自由を求めていたんだ。即ち、彼は心の奥底で新型大量破壊兵器の開発製造を求めていた。彼はその分野に関しては俺の力は必要がなかった。彼に与える俺の力は、彼に知識を与えた。いかにして、兵器を創り出すのか、国を、国民を戦争に向かわせるのか、多くの助言を与えた。俺の力を手にするごとに、俺の意志と彼の自我が融合していく。それは不思議な感覚なのだよ。明らかに俺の意志だけど、彼は自分自身の意志だと信じ切っている。変化に気付けないんだ。」
愛しそうに自身を抱きしめるトリコ王。奪い取ったディレィッシュのことを懐かしむかの様だった。
「さらに黒魔女との接触もあったから、彼の中の“魔”すなわち私の力はどんどん増大していき、俺は完璧に奴を支配した。もう皆が愛してやまなかったトリコ王ディレィッシュはこの世にはいない。」
と言って、トリコ王はクグレックの手を取った。そして、膝をつき、その手の甲に静かにキスをした。
クグレックはトリコ王の唇が手の甲に触れた瞬間、力が抜けるのを感じた。「ひ」と小さな声を出すと、トリコ王はうっとりとした様子でクグレックのことを上目遣いで見つめていた。
「俺がこうして再び外に出ることが出来たのは偏に貴女のおかげなのだ。」
言い換えれば、トリコ王国に災厄をもたらしたのは黒魔女クグレック。
クグレックさえいなければ、トリコ王国が戦争の道を歩むことはなかったし、ディレィッシュだって狂うこともなかった。マシアスだって幽閉されることもなかったし、エネルギー研究所の爆発や戦争の犠牲者も生まれることはなかった。
全ての原因の元は自分自身にあった、と、クグレックは思い込んだ。
「嘘でしょ…。」
思わずこぼれ出るクグレックの言葉。
悪いのはクグレックが制作に協力してしまった大量破壊兵器だとばかり思っていたが、現実は異なっていることに気付いたクグレック。
動悸が激しくなる。耳鳴りもする。眩暈もする。体が震えて来る。胃の中から胃液がせり上がって来るのを感じて、クグレックは部屋の端に駆け込んで吐き出した。
「まだまだ成熟しきっていないようだね。」
とトリコ王は言い、咳き込みながら吐き続けるクグレックの背中をさすった。だが、その行為はクグレックに更なる不安感を煽るだけとなり、嘔吐感は止まらなかった。それどころか、トリコ王の手がクグレックには気持ち悪く感じられ、これ以上触らないで欲しかった。
ぐっと近づくトリコ王の体。
――近寄らないで。私に触らないで。離れて欲しい。
クグレックは心に強く拒絶の気持ちを念じた。バチと大きな音がしたかと思うと、トリコ王が吹き飛んだ。クグレックの周りでは静電気がパチパチとなるような音が断続的に発生している。これがニタが言っていた「バチバチ」なのか、とクグレックは思った。
「ふむ。美しい力だ。」
トリコ王は吹き飛ばされ、尻餅を着いた状態であるにも拘らず、自身に流れたバチバチを嬉しそうに感じ入っていた。
「黒魔女、貴女は成熟しきっていないがために、自らの力を制御することが出来ない。その証拠がこの魔力の放出だ。」
吹き飛ばされたトリコ王は再び立ち上がり、ゆっくりとクグレックに近付く。
クグレックの周りにはパチパチと目に見える形で静電気が発生している。トリコ王はその静電気を間違いなくその体に受けているが、全く気にしていない様子だった。
「何も知らない貴女に教えてあげよう。貴女は黒魔女。人の心に巣食う闇や魔を増幅させ、闇の世界の者達に力を与える存在だ。その力は黒魔女が纏う空気に等しく、意図せずとも発揮されるものだ。黒魔女の力を手中に収めさえすれば、全ての魔を支配することが出来るほどに強大な力を持っている。」
トリコ王がクグレックに近付くにつれて、静電気は強くなっており、もはや静電気が発生しているとは言えない程にクグレックは放電を始めている。
「黒魔女の力を手に入れるためには、2つの方法がある。1つは魔女と魔の契約を交わす。2つめは黒魔女の血を飲み、心臓を喰らうことだ。ただ、魔女は殺すと灰になってしまうから、特別な力で血と心臓を喰らわなければならない。」
クグレックから放たれる静電気は一層激しさを増していった。クグレックはしゃがみ込み、体を震わせながらも必死にトリコ王を拒絶する。クグレックから放たれる魔力の放出は確実にトリコ王に当たっているはずなのだが、本人には何の影響も及ぼさない。
代わりに、静電気はエネルギー制御装置に接触し、次々と装置をショートさせていく。ショートした装置は火花を上げ、黒煙を燻らせた。
すると、同時に照明が点滅し始め、警報が鳴り響いた。
しかしながら、目の前の魔は、器であるディレィッシュを支配するのに苦戦していたらしい。彼はこう語る。
「奴はそもそも闇を多く抱えた人間だった。しかし、奴のトリコ王家としての誇りが、その闇をひた隠しにした。だから、俺は奴を支配することなく、潜むことしかできなかった。だが、ある事件をきっかけに奴は俺の力を欲した。だから、俺は奴に条件付きで力を貸すことにした。」
一つ、魔の力を利用した場合は、自我の一部を明け渡すこと
一つ、一度魔の力を利用した場合は明け渡した自我の範囲で自動的に使われるようになる
一つ、魔が器を支配した場合は、二度と魔の支配下を抜け出すことは出来ない
「という、こちらにとって有利な条件で力を貸したのだが、奴はしぶとかった。力をくすぶらせたまま、俺は奴の中で過ごした。あまりにも彼の中で過ごし過ぎたため、俺は消滅しかかっていた。しかし、好機が訪れた。それが、貴女、黒魔女の出現だ。」
『黒魔女』という言葉にクグレックの背筋は粟立った。
「貴女がリタルダンド共和国の首都アッチェレで力を解放してくれたおかげで、俺は貴女の力を感じ取り、そして、魔の力を強くさせることが出来た。それは、長年続いて来た私と器の自我の均衡を破るには丁度良かった。私は器の自我をゆっくりとずぶずぶ取り込みながら、ようやく融合を果たし、支配することが出来た。彼の闇を全て知る私にとって、彼の意志を引き込むことは容易かった。何度か彼自身も抵抗をしていたようだけど、全くの無駄に終わったね。彼の知識欲、好奇心は自由を求めていた。道徳心や常識といった縛りを超えた自由を求めていたんだ。即ち、彼は心の奥底で新型大量破壊兵器の開発製造を求めていた。彼はその分野に関しては俺の力は必要がなかった。彼に与える俺の力は、彼に知識を与えた。いかにして、兵器を創り出すのか、国を、国民を戦争に向かわせるのか、多くの助言を与えた。俺の力を手にするごとに、俺の意志と彼の自我が融合していく。それは不思議な感覚なのだよ。明らかに俺の意志だけど、彼は自分自身の意志だと信じ切っている。変化に気付けないんだ。」
愛しそうに自身を抱きしめるトリコ王。奪い取ったディレィッシュのことを懐かしむかの様だった。
「さらに黒魔女との接触もあったから、彼の中の“魔”すなわち私の力はどんどん増大していき、俺は完璧に奴を支配した。もう皆が愛してやまなかったトリコ王ディレィッシュはこの世にはいない。」
と言って、トリコ王はクグレックの手を取った。そして、膝をつき、その手の甲に静かにキスをした。
クグレックはトリコ王の唇が手の甲に触れた瞬間、力が抜けるのを感じた。「ひ」と小さな声を出すと、トリコ王はうっとりとした様子でクグレックのことを上目遣いで見つめていた。
「俺がこうして再び外に出ることが出来たのは偏に貴女のおかげなのだ。」
言い換えれば、トリコ王国に災厄をもたらしたのは黒魔女クグレック。
クグレックさえいなければ、トリコ王国が戦争の道を歩むことはなかったし、ディレィッシュだって狂うこともなかった。マシアスだって幽閉されることもなかったし、エネルギー研究所の爆発や戦争の犠牲者も生まれることはなかった。
全ての原因の元は自分自身にあった、と、クグレックは思い込んだ。
「嘘でしょ…。」
思わずこぼれ出るクグレックの言葉。
悪いのはクグレックが制作に協力してしまった大量破壊兵器だとばかり思っていたが、現実は異なっていることに気付いたクグレック。
動悸が激しくなる。耳鳴りもする。眩暈もする。体が震えて来る。胃の中から胃液がせり上がって来るのを感じて、クグレックは部屋の端に駆け込んで吐き出した。
「まだまだ成熟しきっていないようだね。」
とトリコ王は言い、咳き込みながら吐き続けるクグレックの背中をさすった。だが、その行為はクグレックに更なる不安感を煽るだけとなり、嘔吐感は止まらなかった。それどころか、トリコ王の手がクグレックには気持ち悪く感じられ、これ以上触らないで欲しかった。
ぐっと近づくトリコ王の体。
――近寄らないで。私に触らないで。離れて欲しい。
クグレックは心に強く拒絶の気持ちを念じた。バチと大きな音がしたかと思うと、トリコ王が吹き飛んだ。クグレックの周りでは静電気がパチパチとなるような音が断続的に発生している。これがニタが言っていた「バチバチ」なのか、とクグレックは思った。
「ふむ。美しい力だ。」
トリコ王は吹き飛ばされ、尻餅を着いた状態であるにも拘らず、自身に流れたバチバチを嬉しそうに感じ入っていた。
「黒魔女、貴女は成熟しきっていないがために、自らの力を制御することが出来ない。その証拠がこの魔力の放出だ。」
吹き飛ばされたトリコ王は再び立ち上がり、ゆっくりとクグレックに近付く。
クグレックの周りにはパチパチと目に見える形で静電気が発生している。トリコ王はその静電気を間違いなくその体に受けているが、全く気にしていない様子だった。
「何も知らない貴女に教えてあげよう。貴女は黒魔女。人の心に巣食う闇や魔を増幅させ、闇の世界の者達に力を与える存在だ。その力は黒魔女が纏う空気に等しく、意図せずとも発揮されるものだ。黒魔女の力を手中に収めさえすれば、全ての魔を支配することが出来るほどに強大な力を持っている。」
トリコ王がクグレックに近付くにつれて、静電気は強くなっており、もはや静電気が発生しているとは言えない程にクグレックは放電を始めている。
「黒魔女の力を手に入れるためには、2つの方法がある。1つは魔女と魔の契約を交わす。2つめは黒魔女の血を飲み、心臓を喰らうことだ。ただ、魔女は殺すと灰になってしまうから、特別な力で血と心臓を喰らわなければならない。」
クグレックから放たれる静電気は一層激しさを増していった。クグレックはしゃがみ込み、体を震わせながらも必死にトリコ王を拒絶する。クグレックから放たれる魔力の放出は確実にトリコ王に当たっているはずなのだが、本人には何の影響も及ぼさない。
代わりに、静電気はエネルギー制御装置に接触し、次々と装置をショートさせていく。ショートした装置は火花を上げ、黒煙を燻らせた。
すると、同時に照明が点滅し始め、警報が鳴り響いた。
スポンサーサイト
それから数時間後。再びクライドがやって来た。
「魔女クグレック、王の手が空いた。今から行くぞ。」
応接室に入ってからずっとソファに逆向きに座っていたクグレックは顔を上げて、ふらふらと立ち上がった。ずっと同じ体制でいたため、前髪に変な癖がついてぼさぼさになっていたが、クライドは何も言わなかった。
「ニタは…」
生気の宿っていない瞳を向けて、クグレックはクライドに尋ねた。
「応急処置はしたが、万一に備えて強力な睡眠薬を打っているから、数日間は起きないだろう。」
クグレックはわずかに安心した表情を見せた。ゆっくりと目を閉じ、息を全て吐き出して、深呼吸をした。彼女にはやらなければならないことがある。ニタが無事ならば彼女はもう不安を抱く必要がない。
クグレックは覚悟を決めて目を見開いた。
「行きます。」
覚悟を決めたクグレックの様子に、意外そうな表情を見せながらクライドは踵を返した。そして、トリコ王が待つエネルギー高炉最深部まで案内をした。
エネルギー高炉最深部には多くの巨大なタンクが存在した。また、青色のライトが使われており、独特の雰囲気を放っている。一応冷房は効いているのだが、どことなく温度は暖かい。装置が稼働して熱を発しているため、どうしても温度は高めになってしまうとのだ。
黄色と黒の「関係者以外立ち入り禁止」という看板が取り付けられた扉を開けると、その先はz\僅かに広がった空間があった。大きさはディレィッシュのプライベートラボ程だ。管理用の数々の機械に囲まれて、そこにトリコ王ディレィッシュが佇んでいた。
「只今連れてまいりました。」
クライドが膝をつき、かしづいて報告した。
「ごくろうさま。ではクライド、お前は下がっていなさい。“邪魔者”の侵入を防ぐんだ。」
トリコ王は微笑みを湛えながら言った。
「王の邪魔をする者は皆遠ざけております。しかし一番の危険分子は目の前の魔女です。いつ王が危険な目に晒されるか分からない状況で離れることは出来ません。」
「始末はしていないだろう。不意を突かれない限り、お前ならば邪魔者…達の侵入を阻止することが出来る。決して侵入を許すな。その命を捧げても、だ。」
クライドは王の意図を理解していない様子だったが、彼にとっては主の命令は絶対なので、静かにその場から立ち去って行った。
「クグレック、私は気付いているよ。クライドの目をごまかせても、私の情報力を侮ってもらっては困る。」
クグレックはごくりと唾を呑みこんだ。今現在、クグレックが抱えている秘密に目の前のトリコ王が気付いているとなると、非常にまずい。
「ようやく二人きりになれたな。この時を待ちわびていたよ。」
ゆっくりと近付いて来るトリコ王。
「ずっとずっと、待っていた。黒魔女よ。」
(黒魔女黒魔女って、一体なんなの?)
クグレックは明らかな嫌悪感を表情に出した。黒魔女という呼称は、なんだか気に喰わないのだ。
「狭間の世界で、2回ほど、会ってはいたがな。」
「狭間の世界…?」
「1度目はエネルギー研究所の爆発の瞬間。2回目は今日、昼間に。2回目は接続が不十分だったためにイメージは送られなかったが。」
クグレックは昼間のことを思い出すが、ディレィッシュには会っていない。生のディレィッシュも新年会以来1週間ぶりに見たくらいだ。映像上では何度も見かけたが。ただ、実験の時など、ディレィッシュとは2回以上会っていたはずなので、目の前のトリコ王が言っていることは理解が出来なかった。
「俺が昔発明したカノン砲を実践導入して、気持ちが高ぶってしまって、思わず“貴女”に接触してしまった。」
トリコ王がクグレックのことを“貴女”、自身の呼称を俺としたことに、クグレックは違和感を覚えた。トリコ王ディレィッシュはクグレックのことを名前で呼ぶか、お前と呼ぶ。そして、目の前の男が言う2回目について見当がついた。
エネルギー高炉に向かうデンキジドウシャの中で、うっかり眠ってしまった時、夢の中で聞こえたディレィッシュの声。2回目とはその時のことを指しているのか。
「なんとなく分かってきたかな?この世界では“夢”とも呼ばれているはずだ。狭間の世界は。」
ということは、クグレックが見たエネルギー研究所のあの夢も、このトリコ王が見せたことになるのだろうか。部屋に着いていたあの安眠装置はクグレックの夢を支配するためのものとも考えられる。目の前のトリコ王であればやりかねない。
「貴女の眠りが深ければ深いほど、狭間の世界での干渉が楽になる。だが、貴女の狭間の世界には既に別の何かが入り込んでいて、少々干渉しづらかった。遠くの果ての国の少女の姿をしていたが、あれは一体なんなんだ?」
と、トリコ王に聞かれても、クグレックが答えられるはずもなかった。“狭間の世界”すら今初めて聞いた言葉だ。
「何かしてくるわけでもなかったから、1回目の接触時に早々に追い出したが。」
1回目がクグレックが見たあの夢を指すのであれば、あれに現れた妙な現実感を持ったディレィッシュは。
「ただ、やはりその時に感じたのは貴女の力の心地良さだった。本当に素晴らしい。」
うっとりと陶酔しながら語るトリコ王。
「あなたは…一体だれなのですか…?」
クグレックは顔を引きつらせながら尋ねた。なにかがおかしく、気持ち悪い。
トリコ王はその問いに嬉しそうににっこりと微笑んだ。
「やはり、分かるか。」
まるで、母親に褒められたかのように嬉しそうな表情のトリコ王。
「黒魔女。俺は器であるディレィッシュに潜んでいた“魔”だよ。」
大きく手を広げながら、トリコ王は改めて自己紹介を始めた。
「魔女クグレック、王の手が空いた。今から行くぞ。」
応接室に入ってからずっとソファに逆向きに座っていたクグレックは顔を上げて、ふらふらと立ち上がった。ずっと同じ体制でいたため、前髪に変な癖がついてぼさぼさになっていたが、クライドは何も言わなかった。
「ニタは…」
生気の宿っていない瞳を向けて、クグレックはクライドに尋ねた。
「応急処置はしたが、万一に備えて強力な睡眠薬を打っているから、数日間は起きないだろう。」
クグレックはわずかに安心した表情を見せた。ゆっくりと目を閉じ、息を全て吐き出して、深呼吸をした。彼女にはやらなければならないことがある。ニタが無事ならば彼女はもう不安を抱く必要がない。
クグレックは覚悟を決めて目を見開いた。
「行きます。」
覚悟を決めたクグレックの様子に、意外そうな表情を見せながらクライドは踵を返した。そして、トリコ王が待つエネルギー高炉最深部まで案内をした。
エネルギー高炉最深部には多くの巨大なタンクが存在した。また、青色のライトが使われており、独特の雰囲気を放っている。一応冷房は効いているのだが、どことなく温度は暖かい。装置が稼働して熱を発しているため、どうしても温度は高めになってしまうとのだ。
黄色と黒の「関係者以外立ち入り禁止」という看板が取り付けられた扉を開けると、その先はz\僅かに広がった空間があった。大きさはディレィッシュのプライベートラボ程だ。管理用の数々の機械に囲まれて、そこにトリコ王ディレィッシュが佇んでいた。
「只今連れてまいりました。」
クライドが膝をつき、かしづいて報告した。
「ごくろうさま。ではクライド、お前は下がっていなさい。“邪魔者”の侵入を防ぐんだ。」
トリコ王は微笑みを湛えながら言った。
「王の邪魔をする者は皆遠ざけております。しかし一番の危険分子は目の前の魔女です。いつ王が危険な目に晒されるか分からない状況で離れることは出来ません。」
「始末はしていないだろう。不意を突かれない限り、お前ならば邪魔者…達の侵入を阻止することが出来る。決して侵入を許すな。その命を捧げても、だ。」
クライドは王の意図を理解していない様子だったが、彼にとっては主の命令は絶対なので、静かにその場から立ち去って行った。
「クグレック、私は気付いているよ。クライドの目をごまかせても、私の情報力を侮ってもらっては困る。」
クグレックはごくりと唾を呑みこんだ。今現在、クグレックが抱えている秘密に目の前のトリコ王が気付いているとなると、非常にまずい。
「ようやく二人きりになれたな。この時を待ちわびていたよ。」
ゆっくりと近付いて来るトリコ王。
「ずっとずっと、待っていた。黒魔女よ。」
(黒魔女黒魔女って、一体なんなの?)
クグレックは明らかな嫌悪感を表情に出した。黒魔女という呼称は、なんだか気に喰わないのだ。
「狭間の世界で、2回ほど、会ってはいたがな。」
「狭間の世界…?」
「1度目はエネルギー研究所の爆発の瞬間。2回目は今日、昼間に。2回目は接続が不十分だったためにイメージは送られなかったが。」
クグレックは昼間のことを思い出すが、ディレィッシュには会っていない。生のディレィッシュも新年会以来1週間ぶりに見たくらいだ。映像上では何度も見かけたが。ただ、実験の時など、ディレィッシュとは2回以上会っていたはずなので、目の前のトリコ王が言っていることは理解が出来なかった。
「俺が昔発明したカノン砲を実践導入して、気持ちが高ぶってしまって、思わず“貴女”に接触してしまった。」
トリコ王がクグレックのことを“貴女”、自身の呼称を俺としたことに、クグレックは違和感を覚えた。トリコ王ディレィッシュはクグレックのことを名前で呼ぶか、お前と呼ぶ。そして、目の前の男が言う2回目について見当がついた。
エネルギー高炉に向かうデンキジドウシャの中で、うっかり眠ってしまった時、夢の中で聞こえたディレィッシュの声。2回目とはその時のことを指しているのか。
「なんとなく分かってきたかな?この世界では“夢”とも呼ばれているはずだ。狭間の世界は。」
ということは、クグレックが見たエネルギー研究所のあの夢も、このトリコ王が見せたことになるのだろうか。部屋に着いていたあの安眠装置はクグレックの夢を支配するためのものとも考えられる。目の前のトリコ王であればやりかねない。
「貴女の眠りが深ければ深いほど、狭間の世界での干渉が楽になる。だが、貴女の狭間の世界には既に別の何かが入り込んでいて、少々干渉しづらかった。遠くの果ての国の少女の姿をしていたが、あれは一体なんなんだ?」
と、トリコ王に聞かれても、クグレックが答えられるはずもなかった。“狭間の世界”すら今初めて聞いた言葉だ。
「何かしてくるわけでもなかったから、1回目の接触時に早々に追い出したが。」
1回目がクグレックが見たあの夢を指すのであれば、あれに現れた妙な現実感を持ったディレィッシュは。
「ただ、やはりその時に感じたのは貴女の力の心地良さだった。本当に素晴らしい。」
うっとりと陶酔しながら語るトリコ王。
「あなたは…一体だれなのですか…?」
クグレックは顔を引きつらせながら尋ねた。なにかがおかしく、気持ち悪い。
トリコ王はその問いに嬉しそうににっこりと微笑んだ。
「やはり、分かるか。」
まるで、母親に褒められたかのように嬉しそうな表情のトリコ王。
「黒魔女。俺は器であるディレィッシュに潜んでいた“魔”だよ。」
大きく手を広げながら、トリコ王は改めて自己紹介を始めた。
**********
――ようやく貴女にお会い出来る。素晴らしい器のおかげで、世界に混乱をもたらすことが出来た。貴女の魔を呼び寄せる力は、いとも容易く私を呼び覚ますことが出来た。器に眠り続けるしかなかった俺の力は彼奴如きに吸い取られ続けるだけかと危惧したこともあったが、もうその心配もなかろう。彼奴は俺との融合を受け入れた。あとは貴女の力を手に入れるだけ。貴女の来訪を心待ちにしているよ…
クグレックはハッとして目を覚ました。突然ディレィッシュの声が聞こえたのだ。
だが、隣ではニタがすやすやと寝息を立てている。どうやら、夢であった。クグレックは緊張のあまり寝ることも無理だろうと思っていたが、結局寝てしまっていた。
バックミラーを通してクグレックが目覚めたことに気付いたクライドは相変わらずぶっきらぼうな口調で「あと数分で到着だ。」とだけ声をかけた。窓の外を見遣れば青空は既に茜空に変わっていた。ニタは相変わらずすやすやと眠りについている。
3人を乗せたデンキジドウシャはエネルギー高炉へと到着した。エネルギー研究所よりも大きく、精製されたエネルギーが保存されるその建物は、研究所以上に無機質で冷たい様相をしていた。
デンキジドウシャから降りると、クライドは自身の4D2コムを取り出して入り口にかざした。すると、入り口の扉は自動で開き、3人を受け入れた。
「間違っても余計なことをするな。」
半ば睨み付けるような表情でクライドが二人に声をかけた。
クグレックはクライドの威圧感に怖気づき、小さな声で「はい…」とだけ言った。
そして、二人はクライドに案内されて、会議室に通された。そこには多数の机といすが並べられただけの誰一人として存在しない部屋だった。
クグレックとニタは緊張した面持ちで、部屋の中ほどまで進む。この後、トリコ王ディレィッシュに会うことが出来ると考えると、緊張せずにはいられなかった。
クライドは二人が会議室に入るのを確認すると、鍵を施錠した。そして、常に帯刀されている剣の柄に手をかけ、その身を鞘から抜いた。手入れされた白銀の刀身がきらりと光る。そして、すぐさま緊張しつつも警戒心がなくなっているニタに向かって、その剣を振り下ろした。
「え!?」
ザシュッという斬撃音がしたかと思うと、その場に鮮血が広がり、ニタはその場にうつ伏せに崩れ落ちた。
「ど、どうして…?」
ふかふかの白い背中には赤い血が滲んでいた。息を荒くさせながら朦朧とした意識の中でニタはクライドに向かって呟く。
ニタの返り血を浴びたクライドは相も変わらず無表情のままだった。そして、クロスを取り出し剣についた血を拭った。
「王からの命令だ。王が必要としているのは魔女だ。ペポ族の戦士がいると少々邪魔になる。」
クライドは刀身を綺麗に拭き上げると、その身を静かに鞘に納めた。
「まじか…。ニタ、ちょっと油断しちゃったなぁ…。ここでお別れだなんて…。クク、ごめんね…。」
そう言い残すと、ニタは力尽きがくりと床に突っ伏した。
クライドは、呆然として立ち尽くすクグレックに視線を移した。顔は青ざめて、カタカタと体を震わせている。まるで小動物のようだ。
「急所は外している。ニタは手当さえ間に合えば助かる。だから、速やかに大人しく指示に従え。場所を変えるぞ。」
クライドはクグレックの腕を掴んで、無理矢理引っ張って、別の部屋へと連れ込んだ。
「もうじき王の手も空く。しばらくここで待っていろ。」
そこは応接室で、質の良いソファとローテーブルが並べられていた。
クグレックはソファに倒れ込み、背もたれに向かってうつ伏せになった。
ニタが重傷を負った。クライドは手当てをすれば助かると言っていたが、本当に手当てをするのか疑わしい。杖は、クライドに没収されており、ディレィッシュに会う際に返してもらえるとのことだった。また魔法に頼れない状況だ。ニタを助けに行くことも出来ない。
クグレックは頭の中がぐちゃぐちゃになっていたが、なんとか正気を保とうと必死だった。ピアノ商会では、マシアスが怪我して死にかけただけで、取り乱して何も出来なかったのだ。まだ色んな可能性が残っているのだから、クグレックは何とかして正気を保とうと必死だった。
――ようやく貴女にお会い出来る。素晴らしい器のおかげで、世界に混乱をもたらすことが出来た。貴女の魔を呼び寄せる力は、いとも容易く私を呼び覚ますことが出来た。器に眠り続けるしかなかった俺の力は彼奴如きに吸い取られ続けるだけかと危惧したこともあったが、もうその心配もなかろう。彼奴は俺との融合を受け入れた。あとは貴女の力を手に入れるだけ。貴女の来訪を心待ちにしているよ…
クグレックはハッとして目を覚ました。突然ディレィッシュの声が聞こえたのだ。
だが、隣ではニタがすやすやと寝息を立てている。どうやら、夢であった。クグレックは緊張のあまり寝ることも無理だろうと思っていたが、結局寝てしまっていた。
バックミラーを通してクグレックが目覚めたことに気付いたクライドは相変わらずぶっきらぼうな口調で「あと数分で到着だ。」とだけ声をかけた。窓の外を見遣れば青空は既に茜空に変わっていた。ニタは相変わらずすやすやと眠りについている。
3人を乗せたデンキジドウシャはエネルギー高炉へと到着した。エネルギー研究所よりも大きく、精製されたエネルギーが保存されるその建物は、研究所以上に無機質で冷たい様相をしていた。
デンキジドウシャから降りると、クライドは自身の4D2コムを取り出して入り口にかざした。すると、入り口の扉は自動で開き、3人を受け入れた。
「間違っても余計なことをするな。」
半ば睨み付けるような表情でクライドが二人に声をかけた。
クグレックはクライドの威圧感に怖気づき、小さな声で「はい…」とだけ言った。
そして、二人はクライドに案内されて、会議室に通された。そこには多数の机といすが並べられただけの誰一人として存在しない部屋だった。
クグレックとニタは緊張した面持ちで、部屋の中ほどまで進む。この後、トリコ王ディレィッシュに会うことが出来ると考えると、緊張せずにはいられなかった。
クライドは二人が会議室に入るのを確認すると、鍵を施錠した。そして、常に帯刀されている剣の柄に手をかけ、その身を鞘から抜いた。手入れされた白銀の刀身がきらりと光る。そして、すぐさま緊張しつつも警戒心がなくなっているニタに向かって、その剣を振り下ろした。
「え!?」
ザシュッという斬撃音がしたかと思うと、その場に鮮血が広がり、ニタはその場にうつ伏せに崩れ落ちた。
「ど、どうして…?」
ふかふかの白い背中には赤い血が滲んでいた。息を荒くさせながら朦朧とした意識の中でニタはクライドに向かって呟く。
ニタの返り血を浴びたクライドは相も変わらず無表情のままだった。そして、クロスを取り出し剣についた血を拭った。
「王からの命令だ。王が必要としているのは魔女だ。ペポ族の戦士がいると少々邪魔になる。」
クライドは刀身を綺麗に拭き上げると、その身を静かに鞘に納めた。
「まじか…。ニタ、ちょっと油断しちゃったなぁ…。ここでお別れだなんて…。クク、ごめんね…。」
そう言い残すと、ニタは力尽きがくりと床に突っ伏した。
クライドは、呆然として立ち尽くすクグレックに視線を移した。顔は青ざめて、カタカタと体を震わせている。まるで小動物のようだ。
「急所は外している。ニタは手当さえ間に合えば助かる。だから、速やかに大人しく指示に従え。場所を変えるぞ。」
クライドはクグレックの腕を掴んで、無理矢理引っ張って、別の部屋へと連れ込んだ。
「もうじき王の手も空く。しばらくここで待っていろ。」
そこは応接室で、質の良いソファとローテーブルが並べられていた。
クグレックはソファに倒れ込み、背もたれに向かってうつ伏せになった。
ニタが重傷を負った。クライドは手当てをすれば助かると言っていたが、本当に手当てをするのか疑わしい。杖は、クライドに没収されており、ディレィッシュに会う際に返してもらえるとのことだった。また魔法に頼れない状況だ。ニタを助けに行くことも出来ない。
クグレックは頭の中がぐちゃぐちゃになっていたが、なんとか正気を保とうと必死だった。ピアノ商会では、マシアスが怪我して死にかけただけで、取り乱して何も出来なかったのだ。まだ色んな可能性が残っているのだから、クグレックは何とかして正気を保とうと必死だった。
**********
砂漠の景色はいつも晴れ。雲一つない青空が空一面に広がり、褐色の砂漠とのコントラストを成している。
クグレックはどれくらいの間この酷く爽やかな風景を眺め続けていただろうか。車窓の景色は美しいものだけれど、同時にかわることのない単調な景色。エネルギー高炉までは研究所よりも倍以上離れている。
運転するクライドは一切言葉を発しないし、隣のニタもこの緊急事態の中呑気に眠っているので、静かであった。クグレックはこれから果たす責任の重圧で、眠ることなど出来なかった。ずっと緊張状態が続いている。
「クライドさん、クライドさんはどうしてトリコ王国にいるのですか?」
少しでも緊張状態をほぐすために、クグレックはクライドに声をかけてみた。とはいえ、クライドとの会話もまた緊張するものではあるのだが。
バックミラーのクライドと一瞬目が合ったかと思うと、クライドは再び運転に集中する。彼からの返答はなかった。予想していたことではあったが、クグレックは悲しくなった。
だが、しばらくして、クライドは口を開いた。
「王がいるから。」
クグレックはハッとしてバックミラーに映るクライドに視線を移す。
「昔、約束したんだ。ディレィッシュがどんなことをしても、彼を絶対に守り続ける騎士になると。」
クライドは表情を変えずに淡々と話した。
「それが自分の生きる理由であり、歓びだ。あの人は私を認めてくれた。外見や家名といった飾り物ではなく、私自身とその力を認めてくれた。だから私はあの人のために生きると決めたのだ。」
ちらりとクグレックとクライドの視線がバックミラー越しに交差する。クライドは揺らぐことのない強い眼差しであった。
「見たところ、そのペポ族も私と同じだろう。お前のために生きているように見える。」
呑気にぐーすか眠るニタに移る視線。
クグレックもニタを見つめた。
ニタはいつもクグレックの傍にいてくれる。それは二人がアルトフールへ行くという目的があるからであって、クライドのような強烈な忠誠心からではない。
ただ、ニタはクグレックの友達であり、クグレックはニタの友達である。
クグレックはニタが悪い方向へ向かうならば、どんな手を使ってでも止める意志はある。
しかし、ニタはどうだろう。クグレックが自ら行動を起こすことがほとんどなかったので、ニタがクグレックを止めることはなかったが、もしも、万が一クグレックが誤った道を進むとしたならば、ニタはクライドの様に着いて来てしまうのだろうか。
ニタは祖母と面識があり、何かを知っていて、一緒に居てくれるのかもしれないが、詳しい理由は良く分からない。ニタの優しさに頼り切っていたクグレックだったが、ニタの本心をクグレックはまだ知らない。
やはり、クグレックは知らないことだらけだ。
「王の行く末が地獄であろうとも、王の意志だ。あの人がそうしたいと望むならば、私は力を奮うまでだ。」
クライドはゆっくりとハンドルの傍にあるボタンを押した。すると、どこからか音が鳴り出す。ザーザーというノイズ音の中に交じって、女性の声が聞こえる。この滑舌の良い凛とした女性の声は、4D2コムの映像で様々な情報を伝えていた金髪の美女の声だ。
――…先ほど、王国軍はランダムサンプリに対する報復処置を始めました。大陸初となる短距離型高エネルギー発射装置を国境近くの野営地に向けて威嚇発射しました。………
ノイズ音に交じって聞こえる女性の声は非常に張り詰めた様子だった。
「もう止まることは出来ないだろう。戦争は始まる。」
静かに語るクライド。
「ランダムサンプリも、早い段階から戦争が起こることを察知していたらしい。あちらもすぐに対応してくるだろう。ただ、情報は錯綜しているだろうが。」
カチと再びボタンを押すと、ノイズ音は消え、再び無音状態となった。
青空に映える砂丘の中を虹色の粒子を噴射しながら、デンキジドウシャは進んで行く。
マシアスが身を挺して止めることが出来たはずの戦争はいとも簡単に始まってしまうらしい。
クグレックは周りが絶望の暗闇に包まれてしまうような心地だった。
砂漠の景色はいつも晴れ。雲一つない青空が空一面に広がり、褐色の砂漠とのコントラストを成している。
クグレックはどれくらいの間この酷く爽やかな風景を眺め続けていただろうか。車窓の景色は美しいものだけれど、同時にかわることのない単調な景色。エネルギー高炉までは研究所よりも倍以上離れている。
運転するクライドは一切言葉を発しないし、隣のニタもこの緊急事態の中呑気に眠っているので、静かであった。クグレックはこれから果たす責任の重圧で、眠ることなど出来なかった。ずっと緊張状態が続いている。
「クライドさん、クライドさんはどうしてトリコ王国にいるのですか?」
少しでも緊張状態をほぐすために、クグレックはクライドに声をかけてみた。とはいえ、クライドとの会話もまた緊張するものではあるのだが。
バックミラーのクライドと一瞬目が合ったかと思うと、クライドは再び運転に集中する。彼からの返答はなかった。予想していたことではあったが、クグレックは悲しくなった。
だが、しばらくして、クライドは口を開いた。
「王がいるから。」
クグレックはハッとしてバックミラーに映るクライドに視線を移す。
「昔、約束したんだ。ディレィッシュがどんなことをしても、彼を絶対に守り続ける騎士になると。」
クライドは表情を変えずに淡々と話した。
「それが自分の生きる理由であり、歓びだ。あの人は私を認めてくれた。外見や家名といった飾り物ではなく、私自身とその力を認めてくれた。だから私はあの人のために生きると決めたのだ。」
ちらりとクグレックとクライドの視線がバックミラー越しに交差する。クライドは揺らぐことのない強い眼差しであった。
「見たところ、そのペポ族も私と同じだろう。お前のために生きているように見える。」
呑気にぐーすか眠るニタに移る視線。
クグレックもニタを見つめた。
ニタはいつもクグレックの傍にいてくれる。それは二人がアルトフールへ行くという目的があるからであって、クライドのような強烈な忠誠心からではない。
ただ、ニタはクグレックの友達であり、クグレックはニタの友達である。
クグレックはニタが悪い方向へ向かうならば、どんな手を使ってでも止める意志はある。
しかし、ニタはどうだろう。クグレックが自ら行動を起こすことがほとんどなかったので、ニタがクグレックを止めることはなかったが、もしも、万が一クグレックが誤った道を進むとしたならば、ニタはクライドの様に着いて来てしまうのだろうか。
ニタは祖母と面識があり、何かを知っていて、一緒に居てくれるのかもしれないが、詳しい理由は良く分からない。ニタの優しさに頼り切っていたクグレックだったが、ニタの本心をクグレックはまだ知らない。
やはり、クグレックは知らないことだらけだ。
「王の行く末が地獄であろうとも、王の意志だ。あの人がそうしたいと望むならば、私は力を奮うまでだ。」
クライドはゆっくりとハンドルの傍にあるボタンを押した。すると、どこからか音が鳴り出す。ザーザーというノイズ音の中に交じって、女性の声が聞こえる。この滑舌の良い凛とした女性の声は、4D2コムの映像で様々な情報を伝えていた金髪の美女の声だ。
――…先ほど、王国軍はランダムサンプリに対する報復処置を始めました。大陸初となる短距離型高エネルギー発射装置を国境近くの野営地に向けて威嚇発射しました。………
ノイズ音に交じって聞こえる女性の声は非常に張り詰めた様子だった。
「もう止まることは出来ないだろう。戦争は始まる。」
静かに語るクライド。
「ランダムサンプリも、早い段階から戦争が起こることを察知していたらしい。あちらもすぐに対応してくるだろう。ただ、情報は錯綜しているだろうが。」
カチと再びボタンを押すと、ノイズ音は消え、再び無音状態となった。
青空に映える砂丘の中を虹色の粒子を噴射しながら、デンキジドウシャは進んで行く。
マシアスが身を挺して止めることが出来たはずの戦争はいとも簡単に始まってしまうらしい。
クグレックは周りが絶望の暗闇に包まれてしまうような心地だった。
「う、うえ、何?」
ニタは慌てて4D2コムを確認した。さらさらと表面を撫でると、4D2コムから声が聞こえて来た。
『ごきげんよう、ペポの戦士ニタと黒き魔女クグレック。』
ディレィッシュの声だ。
『我がプライベートラボにようこそ。どうしても私に会いたかったのだね。来ると思っていたよ。だが生憎私は爆発事件の対応とそれに対するランダムサンプリへの報復準備で大変忙しい。』
「報復準備って…」
『なお、これは事前に録音しておいたものだ。万一二人が私に会いたくて、プライベートラボまで来た時のために、吹き込み準備しておいた。』
「やっぱり、ニタ達がここに来ることはお見通しだったわけか。」
『エネルギー研究所は吹き飛んでしまったが、同時に進めていたエネルギー高炉の運用は上手く行っている。ここには対ランダムサンプリ用の報復装置が存在するのだが、最後の締めに二人の力を借りたいのだ。3日後、クライドが二人のことを迎えに来る。部屋に戻って、身支度をしてくれ。二人へのメッセージは以上だ。会うのを楽しみにしているぞ。』
ぷつっという切断音がすると、それ以降ディレィッシュの声が聞こえることはなかった。
「報復装置ねぇ…。クク、どうする?ディレィッシュに会いに行く?クライドが来るから、逃げられないような気がするけど。」
「うん。力を貸すつもりはないけど、ディレィッシュに会うことが出来れば、話が出来るよ。」
「ニタは罠の様な気がするんだけどな。嫌な予感しかしない。」
「それでも、行かなきゃ。」
「分かったよ。…ねえ、クク、部屋に戻ったらやってみたいことがあるんだけど、それだけ協力してくれない?」
「え、いいけど、何をやるの?」
「部屋に戻ったら教えるよ!」
二人は元来た道を戻り、再びエスカレベーターに乗って、部屋へと戻った。
そして、ニタはクグレックに“やってみたいこと”を筆談で伝え始めた。言葉にして話してしまうと、どこかで王が聞いているかもしれない。現に扉越しにマシアスと交わした会話は筒抜けであったし、ニタがやってみたいことがばれてしまうと、本当にどうすることも出来なくなる。
3日間の猶予があったので、二人は静かに、そして気付かれないように入念に策を練り、準備を行った。
それから約束の3日後になると、朝早くからクライドの来訪があり、二人は10日ぶりに部屋の外へ出ることが出来た。
「いやぁ、やっぱシャバの空気は違いますなぁ。」
クライドに連れられて城内を歩く二人。クライドは相変わらず無表情で寡黙である。常に右手が帯刀している剣の柄に触れているのは、クグレックとニタが万一逃げようとした際に太刀打ちするための準備だった。彼の剣捌きは音速の様に早く正確である。
と、その時ニタは手に持っていた4D2コムを誤って落としてしまった。
カンカンカンと大理石の廊下に大きな音を立てて転がる4D2コム。慌ててそれを追うニタにクライドは猛禽類の様な鋭い視線を向けたが、4D2コムを拾い大人しくニタが戻って来る様子を見ると、再び歩き始めた。
これがニタの“やってみたいこと”だった。
そのままクライドは城の駐車場へ向かい、二人をデンキジドウシャに乗せ、自らの運転でデンキジドウシャを走らせた。向かう先はおそらくエネルギー高炉だ。
ニタは慌てて4D2コムを確認した。さらさらと表面を撫でると、4D2コムから声が聞こえて来た。
『ごきげんよう、ペポの戦士ニタと黒き魔女クグレック。』
ディレィッシュの声だ。
『我がプライベートラボにようこそ。どうしても私に会いたかったのだね。来ると思っていたよ。だが生憎私は爆発事件の対応とそれに対するランダムサンプリへの報復準備で大変忙しい。』
「報復準備って…」
『なお、これは事前に録音しておいたものだ。万一二人が私に会いたくて、プライベートラボまで来た時のために、吹き込み準備しておいた。』
「やっぱり、ニタ達がここに来ることはお見通しだったわけか。」
『エネルギー研究所は吹き飛んでしまったが、同時に進めていたエネルギー高炉の運用は上手く行っている。ここには対ランダムサンプリ用の報復装置が存在するのだが、最後の締めに二人の力を借りたいのだ。3日後、クライドが二人のことを迎えに来る。部屋に戻って、身支度をしてくれ。二人へのメッセージは以上だ。会うのを楽しみにしているぞ。』
ぷつっという切断音がすると、それ以降ディレィッシュの声が聞こえることはなかった。
「報復装置ねぇ…。クク、どうする?ディレィッシュに会いに行く?クライドが来るから、逃げられないような気がするけど。」
「うん。力を貸すつもりはないけど、ディレィッシュに会うことが出来れば、話が出来るよ。」
「ニタは罠の様な気がするんだけどな。嫌な予感しかしない。」
「それでも、行かなきゃ。」
「分かったよ。…ねえ、クク、部屋に戻ったらやってみたいことがあるんだけど、それだけ協力してくれない?」
「え、いいけど、何をやるの?」
「部屋に戻ったら教えるよ!」
二人は元来た道を戻り、再びエスカレベーターに乗って、部屋へと戻った。
そして、ニタはクグレックに“やってみたいこと”を筆談で伝え始めた。言葉にして話してしまうと、どこかで王が聞いているかもしれない。現に扉越しにマシアスと交わした会話は筒抜けであったし、ニタがやってみたいことがばれてしまうと、本当にどうすることも出来なくなる。
3日間の猶予があったので、二人は静かに、そして気付かれないように入念に策を練り、準備を行った。
それから約束の3日後になると、朝早くからクライドの来訪があり、二人は10日ぶりに部屋の外へ出ることが出来た。
「いやぁ、やっぱシャバの空気は違いますなぁ。」
クライドに連れられて城内を歩く二人。クライドは相変わらず無表情で寡黙である。常に右手が帯刀している剣の柄に触れているのは、クグレックとニタが万一逃げようとした際に太刀打ちするための準備だった。彼の剣捌きは音速の様に早く正確である。
と、その時ニタは手に持っていた4D2コムを誤って落としてしまった。
カンカンカンと大理石の廊下に大きな音を立てて転がる4D2コム。慌ててそれを追うニタにクライドは猛禽類の様な鋭い視線を向けたが、4D2コムを拾い大人しくニタが戻って来る様子を見ると、再び歩き始めた。
これがニタの“やってみたいこと”だった。
そのままクライドは城の駐車場へ向かい、二人をデンキジドウシャに乗せ、自らの運転でデンキジドウシャを走らせた。向かう先はおそらくエネルギー高炉だ。
**********
それから一週間が経った。
ニタとクグレックは案の定部屋に幽閉された。名目としては、来賓を危険な目に合わせられないため。騒動が落ち着いたら、解放するという約束であるが、この先どうなるかは分からない。
1日に1回、部屋の片づけをするために侍女が入って来る以外は部屋の外に出ることが出来なかった。魔法によるセキュリティ解除も出来ない。
これまでの実験により、クグレックの鍵開けの魔法が解析されて、セキュリティに魔法が効かないように施されたのだ。
また、外の状況はどんどん悪化していた。
公式に研究所の爆発はランダムサンプリのテロリストの仕業によるものと発表され、国民はランダムサンプリに対する憎悪を日増しに強くしていった。
トリコ王国は先月、ランダムサンプリと関係を悪化させ、開戦一歩手前という状況になっていたが、第1皇子であるハーミッシュことマシアスの外交手腕により、なんとか関係改善へ向かうことが出来ていたのが記憶にも新しいところだった。
しかし、ランダムサンプリ国は一か月もたたないうちに手のひらを反してきたのだ。トリコ王国の民は怒りに打ち震えた。公にはテロリストがどうやってセキュリティを突破したのかということや、実行犯たちが今どこにいるのかも明らかにされていなかった。
しかし、じきにテロの首謀者は第1皇子ハーミッシュであることが発表され、トリコ国王が断腸の思いで実の弟であるハーミッシュ=トリコを処刑するのだろう。それがトリコ王の描いたシナリオだ。
なんとも気味の悪い状況だ。
すべてがディレィッシュの思う通りに進んでいて、手の中にある。クグレックもニタもマシアスもイスカリオッシュもクライドも、トリコ国民も、皆彼の手のひらの上で踊っている。彼はあの優しい微笑みを浮かべて、掌で踊る大切な人たちを見つめているのだろうか。
クグレックはソファに腰掛けながら、ミルクティーを飲みため息を吐いた。
その傍ではニタがぼんやりとしながら4D2コムから映し出されるニュースを見つめていた。
今、二人が外の情報を得るにはこの4D2コムを頼るしかない。毎日来る侍女は常に別の人だ。片づけのたったの1時間で心の距離を詰めるのはさすがのニタでも難しい。
とはいえ、4D2コムから映し出される情報は、連日研究所での死傷者だったり、テロリストに対する考察だったり、ランダムサンプリという国家に関するマイナスイメージな情報も多く流されていた。この映像を見続けていれば、あっという間に反ランダムサンプリ主義に刷り込まれそうだ。
情報がいとも簡単に操作されている。そんな印象をクグレックは感じていた。
と、その時、映像にちらつきが見られたかと思うと、瞬時に別の映像が映し出された。
毎朝、昼、晩に放映される、トリコ王国の最新情報を伝える番組に切り替わった。
いつもならば、こんな昼下がりの変な時間に映ることはないスタジオ。
いつも最新情報を伝えてくれる金髪の美しい女性が手に持った原稿を読み上げる。
『緊急ニュースです。たったいまトリコ王国政府から入った情報によりますと、本日正午過ぎ、トリコ王国北東部の国境で爆発事件が発生しました。ランダムサンプリとの国境付近ということで、ランダムサンプリの工作活動によるものと政府は見ていますが、詳しい状況はまだ分かっていません。先週のエネルギー研究所の爆発事件と合わせて、政府は調査し、声明を出す模様です。』
真剣な表情で、かつはっきりと滑舌よく原稿を読み上げる女性。
ニタは「あーぁ。」とため息を吐いた。
「これは、もう戦争が始まっちゃうのかな。」
どこか他人事のように話すニタ。それは勿論、トリコ王国がニタの故郷ではないのだから、他人ごとになるのは当たり前だ。
「戦争って、こんな簡単に始まっちゃうのかな。」
クグレックは顔をしかめた。
「そんな、まさか。」
『ここ最近のランダムサンプリからの挑発に関しては、ランダムサンプリに直接抗議すると共に、こちらからも報復制裁を考えている。私の国民の命を巻き込んだランダムサンプリには、それ相応の責任を取ってもらうことで、我々トリコ王国としての誇りを取り戻す。』
映像から、聞き覚えのある声がした。
白いターバンを身に付けたトリコ王だ。トリコ王が声明を発表している。
『また、テロリストの行方も未だ分かっていない。トリコ王国の威信を賭け、エネルギー研究所爆破事件の真相を究明していきたい。』
彼の王のシナリオでは、このテロリストの首謀者はトリコ王国第1皇子ハーミッシュ。
きっとそのうち、王からハーミッシュが国家転覆を狙う国賊であると吊し上げられ、国民は混乱に陥るのだろう。
それはいやだ。絶対にいやだ。
クグレックの心はもやもやとした嫌な気持ちに包まれ、もやもやは心のキャパシティを越え、爆発した。
「ニタ、ディレィッシュを止めよう!」
クグレックは突然すくっと立ち上がり、普段は出さないような大きな声で宣言した。
のんびりしていたニタは体をびくっと反応させた。、クグレックを見た。
「クク?突然、どうしたの?」
ニタから見たクグレックは、いつもの引っ込み思案で大人しい様子のクグレックではなかった。意思をしっかりと固めた、クグレックだった。
「うん、ディレィッシュを止めるの。」
ニタは目を丸くした。目の前の気弱な女の子が、自ら動こうとしている様子を見て、なんだか泣きたい気分になったが、事態はそんな状態ではない。
「でも、鍵は開かないよ?」
ニタが言った。
「全身全霊の魔力を込める。」
そう言って、クグレックは杖を手に取り出入り口のドアの前に立った。
大きな深呼吸を2回行い、呼吸を整える。そして、ドアに向かって杖を構えると、目を閉じて自身の魔力の流れとドアのロックに意識を集中させた。
「アディマ・デプクト・バッキアム」
杖から扉へと放たれた霞の様な白い光。常であれば、光を放った瞬間に杖から意識を離しているが、クグレックはどうしてもこの扉を開けたかった。光から意識を離すことなく、集中する。
ぐるぐると回る魔力の流れ。旧式の鍵であれば、多少はぐるぐるするものの、水が流れ出るように魔力は流れて開錠する。しかし、機械のロックはそうとも行かない。さらに複雑に魔力が流れていく。終わりのないらせん構造の中を突き進んでいくが如くだったが、まるで茨に締め付けられ固まってしまったかのように魔力は科学の力に囚われて開錠することが困難であった。昔、祖母がクグレックの鍵開け魔法に対抗してかけられていた魔法の感覚に似ている。
が、量で押してみればどうだろう。クグレックはさらに杖に魔力を込めた。光はぐっと照度を増した。
しかし、どうしても魔力は扉のロックを貫くことはなかった。
クグレックは杖を降ろして鍵開けの魔法を使用することをあきらめた。
額は汗をかき、前髪が張り付く程度には、魔力疲弊による疲労度を感じていたが、クグレックは諦めることは出来なかった。思考を巡らせて、脱出する方法を考える。
「この扉を壊せばいいんじゃないの?」
ニタがすっと立ち上がり、扉に向かって強烈な一撃をお見舞いする。
ドン!という大きな打撃音がしたが、扉はびくともしなかった。何か特別な素材で作られているのだろうか。と、ニタは首を傾げる。
ニタの生態実験の際に、ニタの発揮できる最大の力をデータとして取っていたので、ニタの力では開けないように、扉が耐久度を上げていた。いつの間にか頑丈な扉に交換されていたようだ。
「あ、そうだ。ディレィッシュのプライベートラボに行く道はどう?」
「機能するかな?私達はディレィッシュに監禁されているんだよ。」
「やってみなきゃわからないよ。」
ニタは4D2コムを持って、バスルームへ向かう。
エネルギー研究所で実験が行われるようになってから、ディレィッシュのプライベートラボに訪れることはなくなったので、久しぶりのエスカレベーターの扉を起動する。
ピロリーンという音と共にバスルームのバスタブがなくなり、代わりにエスカレベーターの扉が出現した。
扉に4D2コムをかざすと、扉は自動的に開いた。エスカレベーターの内部は薄暗く、このままでは動かない。ニタは再び4D2コムを弄ると、エスカレベーター内の灯りが点灯し、ブゥンと低い起動音がした。そして、独特の浮遊感を持って動き始めた。
「…反応するとは思わなかった…。」
ニタは4D2コムに視線を落としながら呟いた。
「え?」
「だって、ディレィッシュはニタ達のこと、外に出したくないはずでしょ。ましてや、ディレィッシュの研究データが残るプライベートラボに無断で入らせたくないと思うし…。なんか嫌な予感。」
「ディレィッシュの手の上で踊らされているんだね。」
「いつからなのかは分からないけど。」
ニタとクグレックは胸の内に言いようもない不安を抱えながらもエスカレベータ―の到着を待った。
ガタンと音を立ててエスカレベーターの動きが止まった。
自動で開いた扉の先には誰もいない。いつもであれば、笑顔のディレィッシュが迎えに出てくれていた。そのせいか分からないがいつもの廊下の青い灯りが無機質で冷たいものに感じられた。
二人は緊張した面持ちでラボへ続く廊下を歩き、行き止まりに到達した。
ここは一件行き止まりに見えるが、パスさえクリアすれば目の前の壁が開いてラボに通じるようになっている。傍にある小さな箱の中に暗証番号を入力する装置がついているのだが、ニタはそこではたと動きを止めた。
このラボへの暗証番号はいつも出迎えてくれていたディレィッシュが入力してくれていたのだ。ニタ達に分かるはずがない。しかも、指紋認証によって暗証番号入力が起動されるため、二人が小さな箱の中の機械をどう弄ろうとも何の反応もなかった。
「万事休すだね…。」
「ここまで来たのに…。」
がくりと肩をおとして項垂れる二人。と、その時、ニタが持っていた4D2コムがけたたましい音を発した。
それから一週間が経った。
ニタとクグレックは案の定部屋に幽閉された。名目としては、来賓を危険な目に合わせられないため。騒動が落ち着いたら、解放するという約束であるが、この先どうなるかは分からない。
1日に1回、部屋の片づけをするために侍女が入って来る以外は部屋の外に出ることが出来なかった。魔法によるセキュリティ解除も出来ない。
これまでの実験により、クグレックの鍵開けの魔法が解析されて、セキュリティに魔法が効かないように施されたのだ。
また、外の状況はどんどん悪化していた。
公式に研究所の爆発はランダムサンプリのテロリストの仕業によるものと発表され、国民はランダムサンプリに対する憎悪を日増しに強くしていった。
トリコ王国は先月、ランダムサンプリと関係を悪化させ、開戦一歩手前という状況になっていたが、第1皇子であるハーミッシュことマシアスの外交手腕により、なんとか関係改善へ向かうことが出来ていたのが記憶にも新しいところだった。
しかし、ランダムサンプリ国は一か月もたたないうちに手のひらを反してきたのだ。トリコ王国の民は怒りに打ち震えた。公にはテロリストがどうやってセキュリティを突破したのかということや、実行犯たちが今どこにいるのかも明らかにされていなかった。
しかし、じきにテロの首謀者は第1皇子ハーミッシュであることが発表され、トリコ国王が断腸の思いで実の弟であるハーミッシュ=トリコを処刑するのだろう。それがトリコ王の描いたシナリオだ。
なんとも気味の悪い状況だ。
すべてがディレィッシュの思う通りに進んでいて、手の中にある。クグレックもニタもマシアスもイスカリオッシュもクライドも、トリコ国民も、皆彼の手のひらの上で踊っている。彼はあの優しい微笑みを浮かべて、掌で踊る大切な人たちを見つめているのだろうか。
クグレックはソファに腰掛けながら、ミルクティーを飲みため息を吐いた。
その傍ではニタがぼんやりとしながら4D2コムから映し出されるニュースを見つめていた。
今、二人が外の情報を得るにはこの4D2コムを頼るしかない。毎日来る侍女は常に別の人だ。片づけのたったの1時間で心の距離を詰めるのはさすがのニタでも難しい。
とはいえ、4D2コムから映し出される情報は、連日研究所での死傷者だったり、テロリストに対する考察だったり、ランダムサンプリという国家に関するマイナスイメージな情報も多く流されていた。この映像を見続けていれば、あっという間に反ランダムサンプリ主義に刷り込まれそうだ。
情報がいとも簡単に操作されている。そんな印象をクグレックは感じていた。
と、その時、映像にちらつきが見られたかと思うと、瞬時に別の映像が映し出された。
毎朝、昼、晩に放映される、トリコ王国の最新情報を伝える番組に切り替わった。
いつもならば、こんな昼下がりの変な時間に映ることはないスタジオ。
いつも最新情報を伝えてくれる金髪の美しい女性が手に持った原稿を読み上げる。
『緊急ニュースです。たったいまトリコ王国政府から入った情報によりますと、本日正午過ぎ、トリコ王国北東部の国境で爆発事件が発生しました。ランダムサンプリとの国境付近ということで、ランダムサンプリの工作活動によるものと政府は見ていますが、詳しい状況はまだ分かっていません。先週のエネルギー研究所の爆発事件と合わせて、政府は調査し、声明を出す模様です。』
真剣な表情で、かつはっきりと滑舌よく原稿を読み上げる女性。
ニタは「あーぁ。」とため息を吐いた。
「これは、もう戦争が始まっちゃうのかな。」
どこか他人事のように話すニタ。それは勿論、トリコ王国がニタの故郷ではないのだから、他人ごとになるのは当たり前だ。
「戦争って、こんな簡単に始まっちゃうのかな。」
クグレックは顔をしかめた。
「そんな、まさか。」
『ここ最近のランダムサンプリからの挑発に関しては、ランダムサンプリに直接抗議すると共に、こちらからも報復制裁を考えている。私の国民の命を巻き込んだランダムサンプリには、それ相応の責任を取ってもらうことで、我々トリコ王国としての誇りを取り戻す。』
映像から、聞き覚えのある声がした。
白いターバンを身に付けたトリコ王だ。トリコ王が声明を発表している。
『また、テロリストの行方も未だ分かっていない。トリコ王国の威信を賭け、エネルギー研究所爆破事件の真相を究明していきたい。』
彼の王のシナリオでは、このテロリストの首謀者はトリコ王国第1皇子ハーミッシュ。
きっとそのうち、王からハーミッシュが国家転覆を狙う国賊であると吊し上げられ、国民は混乱に陥るのだろう。
それはいやだ。絶対にいやだ。
クグレックの心はもやもやとした嫌な気持ちに包まれ、もやもやは心のキャパシティを越え、爆発した。
「ニタ、ディレィッシュを止めよう!」
クグレックは突然すくっと立ち上がり、普段は出さないような大きな声で宣言した。
のんびりしていたニタは体をびくっと反応させた。、クグレックを見た。
「クク?突然、どうしたの?」
ニタから見たクグレックは、いつもの引っ込み思案で大人しい様子のクグレックではなかった。意思をしっかりと固めた、クグレックだった。
「うん、ディレィッシュを止めるの。」
ニタは目を丸くした。目の前の気弱な女の子が、自ら動こうとしている様子を見て、なんだか泣きたい気分になったが、事態はそんな状態ではない。
「でも、鍵は開かないよ?」
ニタが言った。
「全身全霊の魔力を込める。」
そう言って、クグレックは杖を手に取り出入り口のドアの前に立った。
大きな深呼吸を2回行い、呼吸を整える。そして、ドアに向かって杖を構えると、目を閉じて自身の魔力の流れとドアのロックに意識を集中させた。
「アディマ・デプクト・バッキアム」
杖から扉へと放たれた霞の様な白い光。常であれば、光を放った瞬間に杖から意識を離しているが、クグレックはどうしてもこの扉を開けたかった。光から意識を離すことなく、集中する。
ぐるぐると回る魔力の流れ。旧式の鍵であれば、多少はぐるぐるするものの、水が流れ出るように魔力は流れて開錠する。しかし、機械のロックはそうとも行かない。さらに複雑に魔力が流れていく。終わりのないらせん構造の中を突き進んでいくが如くだったが、まるで茨に締め付けられ固まってしまったかのように魔力は科学の力に囚われて開錠することが困難であった。昔、祖母がクグレックの鍵開け魔法に対抗してかけられていた魔法の感覚に似ている。
が、量で押してみればどうだろう。クグレックはさらに杖に魔力を込めた。光はぐっと照度を増した。
しかし、どうしても魔力は扉のロックを貫くことはなかった。
クグレックは杖を降ろして鍵開けの魔法を使用することをあきらめた。
額は汗をかき、前髪が張り付く程度には、魔力疲弊による疲労度を感じていたが、クグレックは諦めることは出来なかった。思考を巡らせて、脱出する方法を考える。
「この扉を壊せばいいんじゃないの?」
ニタがすっと立ち上がり、扉に向かって強烈な一撃をお見舞いする。
ドン!という大きな打撃音がしたが、扉はびくともしなかった。何か特別な素材で作られているのだろうか。と、ニタは首を傾げる。
ニタの生態実験の際に、ニタの発揮できる最大の力をデータとして取っていたので、ニタの力では開けないように、扉が耐久度を上げていた。いつの間にか頑丈な扉に交換されていたようだ。
「あ、そうだ。ディレィッシュのプライベートラボに行く道はどう?」
「機能するかな?私達はディレィッシュに監禁されているんだよ。」
「やってみなきゃわからないよ。」
ニタは4D2コムを持って、バスルームへ向かう。
エネルギー研究所で実験が行われるようになってから、ディレィッシュのプライベートラボに訪れることはなくなったので、久しぶりのエスカレベーターの扉を起動する。
ピロリーンという音と共にバスルームのバスタブがなくなり、代わりにエスカレベーターの扉が出現した。
扉に4D2コムをかざすと、扉は自動的に開いた。エスカレベーターの内部は薄暗く、このままでは動かない。ニタは再び4D2コムを弄ると、エスカレベーター内の灯りが点灯し、ブゥンと低い起動音がした。そして、独特の浮遊感を持って動き始めた。
「…反応するとは思わなかった…。」
ニタは4D2コムに視線を落としながら呟いた。
「え?」
「だって、ディレィッシュはニタ達のこと、外に出したくないはずでしょ。ましてや、ディレィッシュの研究データが残るプライベートラボに無断で入らせたくないと思うし…。なんか嫌な予感。」
「ディレィッシュの手の上で踊らされているんだね。」
「いつからなのかは分からないけど。」
ニタとクグレックは胸の内に言いようもない不安を抱えながらもエスカレベータ―の到着を待った。
ガタンと音を立ててエスカレベーターの動きが止まった。
自動で開いた扉の先には誰もいない。いつもであれば、笑顔のディレィッシュが迎えに出てくれていた。そのせいか分からないがいつもの廊下の青い灯りが無機質で冷たいものに感じられた。
二人は緊張した面持ちでラボへ続く廊下を歩き、行き止まりに到達した。
ここは一件行き止まりに見えるが、パスさえクリアすれば目の前の壁が開いてラボに通じるようになっている。傍にある小さな箱の中に暗証番号を入力する装置がついているのだが、ニタはそこではたと動きを止めた。
このラボへの暗証番号はいつも出迎えてくれていたディレィッシュが入力してくれていたのだ。ニタ達に分かるはずがない。しかも、指紋認証によって暗証番号入力が起動されるため、二人が小さな箱の中の機械をどう弄ろうとも何の反応もなかった。
「万事休すだね…。」
「ここまで来たのに…。」
がくりと肩をおとして項垂れる二人。と、その時、ニタが持っていた4D2コムがけたたましい音を発した。
行動指針が決まった二人は再びマシアスがいる第1皇子居室へと向かう。
城内は慌ただしく、二人を気に掛ける人はいなかった。特に問題もなく、マシアスが控える金細工と極彩色の細密彫刻の扉に辿り着いた。
「無事について良かった。」
安心した様子でニタが言った。
「うん。」
クグレックも安心した表情を浮かべるも、次の瞬間、表情が強張った。
「王の邪魔はさせない。」
低く冷たい声が二人を捕えた。二人はゆっくりと振り向くと、そこには金髪碧眼の端正な顔立ちの男性が立っていた。トリコ王国の国民が持つ水色の瞳とは異なる青い瞳を持った男。軽装が多いこの国で彼だけ重装備している、トリコ王国にはどこか似つかわしくない存在。
トリコ王親衛隊隊長クライドだ。
クグレックが懐かしさを感じるその深い青の瞳はどこか殺気立っていた。
「クライド…?」
クライドの右手が帯刀してる剣の柄を掴む。
「ここで何をしている。」
「なにをって、ねぇ…。」
クグレックに視線を遣りながらニタは言葉を濁すが、クライドは二人に鋭い眼差しを向け続ける。
「昨日から何か怪しく思っていたが、これ以上王の邪魔をするな。」
クライドは二人を睨み付ける。その眼差しの鋭さに、クグレックはおろかニタすらも思わず閉口し、たじろいだ。クライドの深い青の瞳はまるで雪の日の夜の様に冷たくて暗く、そして静寂を湛えていた。
「おい、ニタとクグレックか?」
扉の向こうから、マシアスの声がする。ニタとクグレックは返事をしたかったが、クライドの気迫に気圧されて反応することが出来ない。
クライドはちらりと扉を見たが話しを続けた。
「王はトリコ王国を更に繁栄へと導くために、これからランダムサンプリと戦争を始める。だが、これも全てトリコ王国繁栄のため。科学の力は確かに万能だ。しかし、その裏に隠された恐怖を知っておかなければならない。そのためにも、トリコ王国は科学で他を圧倒する。それの第一段階として、独裁国家であるランダムサンプリを制覇し、他国にその強さを知らしめる。」
深い青の瞳は揺らぐことなく、ニタとクグレックを捉える。その鋭さと圧迫感に二人は圧倒されて、動くことが出来なかった。
「だからこそ、王が進むべき道はハーミッシュが邪魔なのだ。ハーミッシュとイスカリオッシュは王にとって立った二人の血の繋がった兄弟。いくらハーミッシュが邪魔であろうと、王はハーミッシュを殺すことが出来ない。殺せないからこそ幽閉しているというのに、ハーミッシュはどうして王に反していることに気付かない?正しいのは王だ。この国の絶対は王であるディレィッシュだというのに。」
王ディレィッシュに対する頑なな忠誠心。おそらく、マシアスやイスカリオッシュよりも、クライドはディレィッシュを病的なまでに慕っている。
王の忠実なる僕であるクライドは鞘から刀剣を抜く。しっかりと手入れされている剣の刀身がきらりと力強く光った。
「ク、クライド、何をする気?」
ニタが、たじろぎつつも答えた。
「ここで殺されたくなければ、もう二度とハーミッシュに関わろうとするな。ここで誓え。」
クライドは白く輝くその剣をニタとクグレックに向かって構えた。
「…多くの人の命を犠牲にすることが、ディレィッシュの意志なの…?」
とクグレックは静かに質問した。
「…そうだ。」
「それって、良くないこと…」
「だが、王の意志だ。」
間髪入れず、クライドは答えた。
「クライドは、それでいいの…?クライドの意志は、それでいいの?」
怖気づきながらも、クグレックはクライドに尋ねる。傍にいるニタは、黙ってクグレックとクライドを見つめ、事の成り行きを見守っていた。
「俺の意志は王の意志だ。何があっても、王に追随すること。王がどんな判断をしたとしても。」
海の底の様に、揺らぐことがないクライドの青の瞳。
彼はディレィッシュに従うことに関して、並々ならない覚悟を持っていた。
そもそも、クライドはドルセード王国の上流階級に生まれ、誉れ高きドルチェ騎士団に所属し、エリート街道を突き進めば良い人生だった。それなのに、彼は家名を捨て、国を捨ててまでしてトリコ王国、いや、トリコ王ディレィッシュに完全服従しているのだ。
2人の間に何があったのか知るところではないが、クライドはおそらくトリコ王国一トリコ王に絶対的な信頼を寄せている。だから、彼の王に対する思いは、決してぶれることはない。
その時、急にけたたましい警報音が鳴り響いた。ニタとクグレックは慌てて辺りをきょろきょろと見回す。一方でクライドは落ち着いた様子で懐から手のひらサイズのコンパクトを取り出した。クライドの4D2コムである。クライドは4D2コムの液晶に表示されているものを見て、一瞬目を見開いたが、すぐに4D2コムを床に置き、持っていた剣は鞘に納めた。そして、膝をついて静かに傾付いた。
4D2コムからは、王ディレィッシュの立体映像が現れた。立体映像のディレィッシュは相変わらずの余裕を持った笑みを浮かべている。
『どうも、物騒だね。クライド、ダメじゃないか。勝手な行動は。今は研究所爆発の後処理で大変な時なんだから、勝手に動くのは良くないぞ。それに私が考えているシナリオがあるのだから。』
「大変申し訳ございません。」
クライドは立体映像のディレィッシュに向かって深々と頭を下げた。
『よろしい。さて、クグレックとニタ、そして、ハーミッシュ。安心してくれ。お前たちの話は、昨日から、しっかり聞いている。トリコ王国の監視体制は素晴らしいだろう。』
ディレィッシュはにっこりと微笑んだ。
『私は高出力エネルギー装置を製造し、その実験体としてランダムサンプリを選んだ。高出力エネルギー装置を用いた兵器は、どれほどの威力なのか、試すにはとてもいい相手だ。独裁軍事国家(笑)という国際的に不安を煽る様な国家には少し痛い目を見て貰っても良いだろう。』
ニタは奥歯を噛みしめ、立体映像のディレィッシュを睨み付ける。
『だが、そうなると、ハーミッシュ、アイツの存在は邪魔になる。』
ディレィッシュはちらりとマシアスが幽閉されている扉に視線をやった。「なにが起きてるんだ、ニタ、クグレック、答えてくれ!」とマシアスが喚く声が聞こえるが、流石に反応できる状況ではない。
『アイツの行動力と目的遂行能力は高すぎる。ピアノ商会の件もほぼ単独で全て片付けた。野放しにしたら、何をしでかすか分からない。ハーミッシュにはいずれ死んでもらう。私とアイツは進むべき方向を違えてしまったようだ。もう取り返しがつかない程に。』
クグレックはアッチェレの宿屋で安心しきった様子でいたマシアスとディレィッシュという二人の兄弟のことを思い出した。あの時の二人は間違いなくお互いを信頼し合った兄弟だった。
『情報は書き換えよう。ハーミッシュはランダムサンプリのテロリストを招き入れた首謀者だった。昨日、ハーミッシュの部屋までのセキュリティが発砲しなかった理由はテロリストを招き入れるため。テロリストによるセキュリティ開錠のログはクグレックとニタが開けたものとして成立する。二人がここまでやって来た監視映像も、テロリストの侵入に見せかけるために少し手を加えさせてもらった。テロリストなんて虚構の存在にすぎないが、トリコ王国にはこれが真実となる。テロリストを呼び寄せたハーミッシュは、国民の総意思により、信頼を失い処刑されるだろう。』
ディレィッシュは終始微笑みを湛えたままだった。血の繋がった兄弟の命を奪おうとしているのに、どうしてこのような表情が出来るのか。クグレックは背筋がぞっとするのを感じた。
『さぁ、クライド、クグレックとニタを自室に戻してやりなさい。二人とも騒動が落ち着くまで、部屋で待機だ。こんな血なまぐさいことに、来賓を巻き込むわけにはいかないからね。あ、そうだ、クライド、目を閉じて。』
と、ディレィッシュが言い終えた瞬間、ディレィッシュが映る立体映像が、急に激しく光った。あまりの眩しさにニタとクグレックは目が眩み、目を開けるのが困難になった。
その隙を着いて、光を直視しなかったクライドはニタを拘束し、クグレックからは杖を奪った。
「く、ディレィッシュ、マシアスは兄弟でしょ…。どうして、こんなことを…」
ニタは目を閉じながら呟いた。
『もちろん、苦しいさ。血の繋がった兄弟を謀略に嵌めて処刑するなんてね。だけど、私は最初から、この国を統べると誓った時から、情けは捨てているんだ。ハーミッシュは私とはもう異なる人間だ。血の繋がりなどもはや関係ない。』
「…そんな悲しいこと…。」
視力がなくなって、真っ暗闇の中で、ニタは一瞬クライドの拘束する力が弱くなったのを感じた。
しかし、ディレィッシュの
『なぁクライド。そんな私を慰めてくれるのはお前しかいないよ。お前だけは裏切らないでおくれよ』
という懇願するような甘い声が再びクライドの力を強くさせた。
ニタとクグレックは視力が一時的に落ちて成す統べなくクライドに引っ張られて、自室に戻された。
城内は慌ただしく、二人を気に掛ける人はいなかった。特に問題もなく、マシアスが控える金細工と極彩色の細密彫刻の扉に辿り着いた。
「無事について良かった。」
安心した様子でニタが言った。
「うん。」
クグレックも安心した表情を浮かべるも、次の瞬間、表情が強張った。
「王の邪魔はさせない。」
低く冷たい声が二人を捕えた。二人はゆっくりと振り向くと、そこには金髪碧眼の端正な顔立ちの男性が立っていた。トリコ王国の国民が持つ水色の瞳とは異なる青い瞳を持った男。軽装が多いこの国で彼だけ重装備している、トリコ王国にはどこか似つかわしくない存在。
トリコ王親衛隊隊長クライドだ。
クグレックが懐かしさを感じるその深い青の瞳はどこか殺気立っていた。
「クライド…?」
クライドの右手が帯刀してる剣の柄を掴む。
「ここで何をしている。」
「なにをって、ねぇ…。」
クグレックに視線を遣りながらニタは言葉を濁すが、クライドは二人に鋭い眼差しを向け続ける。
「昨日から何か怪しく思っていたが、これ以上王の邪魔をするな。」
クライドは二人を睨み付ける。その眼差しの鋭さに、クグレックはおろかニタすらも思わず閉口し、たじろいだ。クライドの深い青の瞳はまるで雪の日の夜の様に冷たくて暗く、そして静寂を湛えていた。
「おい、ニタとクグレックか?」
扉の向こうから、マシアスの声がする。ニタとクグレックは返事をしたかったが、クライドの気迫に気圧されて反応することが出来ない。
クライドはちらりと扉を見たが話しを続けた。
「王はトリコ王国を更に繁栄へと導くために、これからランダムサンプリと戦争を始める。だが、これも全てトリコ王国繁栄のため。科学の力は確かに万能だ。しかし、その裏に隠された恐怖を知っておかなければならない。そのためにも、トリコ王国は科学で他を圧倒する。それの第一段階として、独裁国家であるランダムサンプリを制覇し、他国にその強さを知らしめる。」
深い青の瞳は揺らぐことなく、ニタとクグレックを捉える。その鋭さと圧迫感に二人は圧倒されて、動くことが出来なかった。
「だからこそ、王が進むべき道はハーミッシュが邪魔なのだ。ハーミッシュとイスカリオッシュは王にとって立った二人の血の繋がった兄弟。いくらハーミッシュが邪魔であろうと、王はハーミッシュを殺すことが出来ない。殺せないからこそ幽閉しているというのに、ハーミッシュはどうして王に反していることに気付かない?正しいのは王だ。この国の絶対は王であるディレィッシュだというのに。」
王ディレィッシュに対する頑なな忠誠心。おそらく、マシアスやイスカリオッシュよりも、クライドはディレィッシュを病的なまでに慕っている。
王の忠実なる僕であるクライドは鞘から刀剣を抜く。しっかりと手入れされている剣の刀身がきらりと力強く光った。
「ク、クライド、何をする気?」
ニタが、たじろぎつつも答えた。
「ここで殺されたくなければ、もう二度とハーミッシュに関わろうとするな。ここで誓え。」
クライドは白く輝くその剣をニタとクグレックに向かって構えた。
「…多くの人の命を犠牲にすることが、ディレィッシュの意志なの…?」
とクグレックは静かに質問した。
「…そうだ。」
「それって、良くないこと…」
「だが、王の意志だ。」
間髪入れず、クライドは答えた。
「クライドは、それでいいの…?クライドの意志は、それでいいの?」
怖気づきながらも、クグレックはクライドに尋ねる。傍にいるニタは、黙ってクグレックとクライドを見つめ、事の成り行きを見守っていた。
「俺の意志は王の意志だ。何があっても、王に追随すること。王がどんな判断をしたとしても。」
海の底の様に、揺らぐことがないクライドの青の瞳。
彼はディレィッシュに従うことに関して、並々ならない覚悟を持っていた。
そもそも、クライドはドルセード王国の上流階級に生まれ、誉れ高きドルチェ騎士団に所属し、エリート街道を突き進めば良い人生だった。それなのに、彼は家名を捨て、国を捨ててまでしてトリコ王国、いや、トリコ王ディレィッシュに完全服従しているのだ。
2人の間に何があったのか知るところではないが、クライドはおそらくトリコ王国一トリコ王に絶対的な信頼を寄せている。だから、彼の王に対する思いは、決してぶれることはない。
その時、急にけたたましい警報音が鳴り響いた。ニタとクグレックは慌てて辺りをきょろきょろと見回す。一方でクライドは落ち着いた様子で懐から手のひらサイズのコンパクトを取り出した。クライドの4D2コムである。クライドは4D2コムの液晶に表示されているものを見て、一瞬目を見開いたが、すぐに4D2コムを床に置き、持っていた剣は鞘に納めた。そして、膝をついて静かに傾付いた。
4D2コムからは、王ディレィッシュの立体映像が現れた。立体映像のディレィッシュは相変わらずの余裕を持った笑みを浮かべている。
『どうも、物騒だね。クライド、ダメじゃないか。勝手な行動は。今は研究所爆発の後処理で大変な時なんだから、勝手に動くのは良くないぞ。それに私が考えているシナリオがあるのだから。』
「大変申し訳ございません。」
クライドは立体映像のディレィッシュに向かって深々と頭を下げた。
『よろしい。さて、クグレックとニタ、そして、ハーミッシュ。安心してくれ。お前たちの話は、昨日から、しっかり聞いている。トリコ王国の監視体制は素晴らしいだろう。』
ディレィッシュはにっこりと微笑んだ。
『私は高出力エネルギー装置を製造し、その実験体としてランダムサンプリを選んだ。高出力エネルギー装置を用いた兵器は、どれほどの威力なのか、試すにはとてもいい相手だ。独裁軍事国家(笑)という国際的に不安を煽る様な国家には少し痛い目を見て貰っても良いだろう。』
ニタは奥歯を噛みしめ、立体映像のディレィッシュを睨み付ける。
『だが、そうなると、ハーミッシュ、アイツの存在は邪魔になる。』
ディレィッシュはちらりとマシアスが幽閉されている扉に視線をやった。「なにが起きてるんだ、ニタ、クグレック、答えてくれ!」とマシアスが喚く声が聞こえるが、流石に反応できる状況ではない。
『アイツの行動力と目的遂行能力は高すぎる。ピアノ商会の件もほぼ単独で全て片付けた。野放しにしたら、何をしでかすか分からない。ハーミッシュにはいずれ死んでもらう。私とアイツは進むべき方向を違えてしまったようだ。もう取り返しがつかない程に。』
クグレックはアッチェレの宿屋で安心しきった様子でいたマシアスとディレィッシュという二人の兄弟のことを思い出した。あの時の二人は間違いなくお互いを信頼し合った兄弟だった。
『情報は書き換えよう。ハーミッシュはランダムサンプリのテロリストを招き入れた首謀者だった。昨日、ハーミッシュの部屋までのセキュリティが発砲しなかった理由はテロリストを招き入れるため。テロリストによるセキュリティ開錠のログはクグレックとニタが開けたものとして成立する。二人がここまでやって来た監視映像も、テロリストの侵入に見せかけるために少し手を加えさせてもらった。テロリストなんて虚構の存在にすぎないが、トリコ王国にはこれが真実となる。テロリストを呼び寄せたハーミッシュは、国民の総意思により、信頼を失い処刑されるだろう。』
ディレィッシュは終始微笑みを湛えたままだった。血の繋がった兄弟の命を奪おうとしているのに、どうしてこのような表情が出来るのか。クグレックは背筋がぞっとするのを感じた。
『さぁ、クライド、クグレックとニタを自室に戻してやりなさい。二人とも騒動が落ち着くまで、部屋で待機だ。こんな血なまぐさいことに、来賓を巻き込むわけにはいかないからね。あ、そうだ、クライド、目を閉じて。』
と、ディレィッシュが言い終えた瞬間、ディレィッシュが映る立体映像が、急に激しく光った。あまりの眩しさにニタとクグレックは目が眩み、目を開けるのが困難になった。
その隙を着いて、光を直視しなかったクライドはニタを拘束し、クグレックからは杖を奪った。
「く、ディレィッシュ、マシアスは兄弟でしょ…。どうして、こんなことを…」
ニタは目を閉じながら呟いた。
『もちろん、苦しいさ。血の繋がった兄弟を謀略に嵌めて処刑するなんてね。だけど、私は最初から、この国を統べると誓った時から、情けは捨てているんだ。ハーミッシュは私とはもう異なる人間だ。血の繋がりなどもはや関係ない。』
「…そんな悲しいこと…。」
視力がなくなって、真っ暗闇の中で、ニタは一瞬クライドの拘束する力が弱くなったのを感じた。
しかし、ディレィッシュの
『なぁクライド。そんな私を慰めてくれるのはお前しかいないよ。お前だけは裏切らないでおくれよ』
という懇願するような甘い声が再びクライドの力を強くさせた。
ニタとクグレックは視力が一時的に落ちて成す統べなくクライドに引っ張られて、自室に戻された。
**********
クグレックはハッとして目を覚ました。
科学の力でこの部屋は快眠をもたらすために様々な工夫がなされているというのに、嫌な目覚めだ。クグレックは大量の汗をかいていた。
そして、目覚めると同時にクグレックは声を潜めて泣いた。涙が勝手に溢れてくるのだ。
とんでもない悪夢に、クグレックは非常に怖い思いをした。そして、それが現実ではなくただの悪夢に過ぎないということに安堵したという二つの思いが複雑に混じった涙がとめどなく溢れて来る。
夢の中では、実験が失敗して、多くの人が死んでいた。夢だったというのに死の感覚は非常に生々しい現実味を持っていた。もし、マシアスの言う通り、ディレィッシュが大量破壊兵器を完成させ、ランダムサンプリの多くの人達の命を奪ったとしたら、あの地獄絵図が現実のものとなるのだ。なんて恐ろしい。クグレックの涙は嗚咽と共に止まることを知らない。
「クク、どうしたの?」
すすり泣くクグレックに気付いたニタは心配そうにクグレックの傍に佇む。背中を優しく撫でながら、クグレックの気持ちを落ち着かせた。
「怖い夢を見て。」
呼吸を落ち着かせながら、クグレックは答えた。まだ気持ちがざわざわして、夢の中身を話す気にはならない。ニタのふかふか感に癒されながら、心を落ち着かせる。
「今日はなんだか大変なことがあったらしい。ニタ達は部屋から出るなって言われたよ。」
クグレックを撫でながら、落ち着いた様子でニタが言った。
「でも、別に部屋は出れたから、いつものおっちゃんのところに行って来たんだ。」
いつものおっちゃんとは、トリコ王国でニタが仲良くなったトリコ城の専属料理人のことだ。いつ仲良くなったのか分からないが、トリコ王家に仕えて46年の陽気で気の良いおじさんである。ニタはこのおっちゃんを通してトリコ王国の情報を入手していた。
「おっちゃんが言うには、エネルギー研究所の方で大規模な爆発があったんだって。今は事態の把握や原因の解明、救助活動でてんやわんやな状況らしい。」
「エネルギー研究所で…?」
クグレックは背筋が凍りついた。先ほど見た夢が鮮明に思い出される。
「なんか、テロリストの仕業かもーって。新年会で浮かれてるところを狙って、城に侵入したとかなんとか。」
「テロ、リスト?」
「政治的、もしくは宗教的信条で、暴力的な破壊活動を行う集団のこと。まぁ、ランダムサンプリが怪しいとされてるんだけどね。」
ランダムサンプリの人が鉄壁セキュリティのトリコ王国に侵入して、破壊活動を行った。現実での研究所の爆発事件は、部外者からの故意的なものということになる。
ニタ曰く、一瞬だけトリコ城の全てのセキュリティが機能しなくなった時間があるらしい。その時にテロリストたちは城の中に潜入し、機密情報を持ち去り、研究所に侵入したということだった。マシアスに会いに行った時、セキュリティを解除しても警報が鳴らなかったのは、丁度テロリストたちがセキュリティをダウンさせた時であったのかもしれない、とニタは勝手に推論を推し進める。
だが、ニタはクグレックが人の話を聞くどころではない様子を見て
「クク、なんか飲む?ココアとかあるよ。」
と、尋ねると、クグレックはコクリと頷いた。しかし、同時に夢の中で焼け爛れた人達が渇きに苦しみ、水を欲する様子がフラッシュバックして、吐き気がしてきた。
「やっぱり、いい。」
クグレックは首を横に振って、ニタの申し出を断った。
「そう…」
しょんぼりとするニタ。
クグレックはニタの様子に気付くことなく、ぼんやりとベッドの上で塞ぎ込む。
ニタはやるせない様子で、クグレックから離れ、ローテーブルの上にある4D2コムを手に取った。慣れた手つきで操作すると、液晶から立体映像が映し出される。4D2コムではトリコ王国が全国民に向けて、国の情報を提供している。天気情報、催事、事件、政治など、様々な情報が映像付きで提供されるのだ。
4D2コムは、雲一つない青空の下、真っ黒に崩壊しつくした研究所の様子を映し出す。そこではガスマスクをつけた救助隊が、研究所に取り残されていた人々の救助活動に精を尽くしていたり、その場で応急手当てをしている人達の姿を映し出しながら、沈痛な面持ちで一人の女性が現場の状況を必死に説明していた。
『本日未明に爆発を起こしたエネルギー研究所は建物は大破し、多くの犠牲者が出たとされています。その人数は未だ調査中ですが、数十名の研究者、作業者たちが体にやけどを負ったり、瓦礫の下敷きになり負傷したとされています。救助隊の懸命な救助活動が行われていますが、爆発の原因については今のところ分かってはおりません。年明け早々、凄惨な事件が発生しております。』
ぼんやりと映像を見つめる無表情のニタ。
研究所で一緒に実験を行った研究員のの無事が気になっていた。担架で運ばれていたり、応急手当されて横たわっている人の中にいるのか、ニタはじっと映像をみつめていた。
しばらくして、ニタの背後から衣擦れの音が聞こえた。クグレックが動き出したのだ。のそのそとニタの隣に座り、一緒に4D2コムからの映像を見つめる。
クグレックは映像を見つめながら、ボロボロと涙を零していた。
「クク…」
ニタは心配そうにクグレックを見つめるが、クグレックは涙を流してばかりでニタを気にする様子がない。ニタは再び映像に視線を戻した。
だが、その瞬間クグレックはようやく口を開いた。
「ニタ、これは、テロリストの仕業じゃない。」
クグレックは涙を零しながらも、抑揚のない声で言った。
「これは、単なる実験の失敗。情報が改竄されてる。」
クグレックの脳裏には青空の下で不敵に微笑むディレィッシュの姿があった。
夢だとはいえ、妙に生々しい印象が残っている。夢の中の爆発の瞬間はおそらく虚構のものだが、研究所が爆発したという事実は夢のものと一緒だ。研究所は廃墟と化し、研究員たちは生死も判別できない凄惨たる状態に追いやられた。この事実だけは夢も現実も同じなのだ。
ディレィッシュがこの爆発に関わりがあるのならば、クグレックにも責任が発生する。
なぜならば、クグレックは何も知らないとはいえディレィッシュの実験に協力してしまったからだ。魔法と科学の融合がより高度なエネルギーを抽出し、暮らしを良くするという名目に協力したのは、間違いなくクグレックだ。魔法の力の良い部分も悪い部分も知っているクグレックなのに、彼女はいとも容易く実験に協力した。
それがこの「失敗」という惨状を引き起こした。
直接的ではないにせよクグレックの力は何の罪もない沢山の人達を殺したのだ。
「…おっちゃんは、ランダムサンプリのテロリストの仕業かも、って言ってたよ。」
ニタは懐疑的な様子で言った。
「ニタ、ちがう。多分、マシアスの言う通り、ディレィッシュは戦争を望んでいる。」
クグレックの涙はとめどなく零れ落ちる。ニタは真剣な表情で、クグレックの言葉に耳を傾ける。
「魔法と科学の力は、あっという間に人の命を奪える。それって、凄く恐ろしいことだよ。」
クグレックは映像を見つめながら、夢の惨状を重ね合わせていた。真っ黒になった人の形をした塊、皮膚が焼けただれ、剥がれ落ちて苦しむ人。ニコニコ微笑んでくれたあの人たちは、もういない。
クグレックの異常な様子に、ニタは困った表情を浮かべた。ニタには小さくため息を吐くと、優しく諭すような口調でクグレックに話しかけた。
「クク、ククが決めたことであるのならば、ニタは力を貸すよ。もしニタで良ければ、言いたいこと、言ってごらん。」
そうニタに優しく言われて、クグレックは憂鬱な気持ちが幾分か和らいだような気がした。
クグレックは少しばかり落ち着いて昨晩見た陰惨な夢の内容を話し始めた。ぽつり、ぽつりと夢の内容を話していくクグレックにニタは横から言葉を挟むことなくしっかりと傾聴していた。
そして、クグレックが夢の内容を話し終えると、ニタは
「つまり、ククはそんな夢を見たからこの爆発はテロリストの仕業ではなく、ディレィッシュの魔法実験の失敗による爆発だって考えているわけだ。それで、魔法実験の失敗は、協力したククにも責任はあるから、なんとかして大量破壊兵器の開発をやめさせて、戦争を回避させたい、ってことだね。」
と、まとめると、クグレックはこくりと頷いた。
「じゃぁ、なんとかしよう。ククがそう言うなら、ニタもそうだと思う。テロリストの仕業じゃない。ディレィッシュの実験失敗による、故意的な爆発だった。」
ニタがクグレックの夢のことを信じてくれたことに、ほっと安心感を覚えた。
「グレックと行動を共にすること。言ったでしょ。ニタはククがいたいところに着いて行くって。ニタにとって、ククの意志が一番重要なんだ。話してくれてありがとう。」
「うん…。ニタ、ありがとう…。」
クグレックの涙は止まった。クグレックは空いている方の手で涙の跡を拭い、そのふかふかで可憐な姿の相棒を頼もしく思った。
「とはいえ、頼みのイスカリオッシュもいないし、今お城は爆発事件の対応でてんやわんやだ。…もう一回マシアスのところに行ってみようか。」
「うん。」
クグレックはハッとして目を覚ました。
科学の力でこの部屋は快眠をもたらすために様々な工夫がなされているというのに、嫌な目覚めだ。クグレックは大量の汗をかいていた。
そして、目覚めると同時にクグレックは声を潜めて泣いた。涙が勝手に溢れてくるのだ。
とんでもない悪夢に、クグレックは非常に怖い思いをした。そして、それが現実ではなくただの悪夢に過ぎないということに安堵したという二つの思いが複雑に混じった涙がとめどなく溢れて来る。
夢の中では、実験が失敗して、多くの人が死んでいた。夢だったというのに死の感覚は非常に生々しい現実味を持っていた。もし、マシアスの言う通り、ディレィッシュが大量破壊兵器を完成させ、ランダムサンプリの多くの人達の命を奪ったとしたら、あの地獄絵図が現実のものとなるのだ。なんて恐ろしい。クグレックの涙は嗚咽と共に止まることを知らない。
「クク、どうしたの?」
すすり泣くクグレックに気付いたニタは心配そうにクグレックの傍に佇む。背中を優しく撫でながら、クグレックの気持ちを落ち着かせた。
「怖い夢を見て。」
呼吸を落ち着かせながら、クグレックは答えた。まだ気持ちがざわざわして、夢の中身を話す気にはならない。ニタのふかふか感に癒されながら、心を落ち着かせる。
「今日はなんだか大変なことがあったらしい。ニタ達は部屋から出るなって言われたよ。」
クグレックを撫でながら、落ち着いた様子でニタが言った。
「でも、別に部屋は出れたから、いつものおっちゃんのところに行って来たんだ。」
いつものおっちゃんとは、トリコ王国でニタが仲良くなったトリコ城の専属料理人のことだ。いつ仲良くなったのか分からないが、トリコ王家に仕えて46年の陽気で気の良いおじさんである。ニタはこのおっちゃんを通してトリコ王国の情報を入手していた。
「おっちゃんが言うには、エネルギー研究所の方で大規模な爆発があったんだって。今は事態の把握や原因の解明、救助活動でてんやわんやな状況らしい。」
「エネルギー研究所で…?」
クグレックは背筋が凍りついた。先ほど見た夢が鮮明に思い出される。
「なんか、テロリストの仕業かもーって。新年会で浮かれてるところを狙って、城に侵入したとかなんとか。」
「テロ、リスト?」
「政治的、もしくは宗教的信条で、暴力的な破壊活動を行う集団のこと。まぁ、ランダムサンプリが怪しいとされてるんだけどね。」
ランダムサンプリの人が鉄壁セキュリティのトリコ王国に侵入して、破壊活動を行った。現実での研究所の爆発事件は、部外者からの故意的なものということになる。
ニタ曰く、一瞬だけトリコ城の全てのセキュリティが機能しなくなった時間があるらしい。その時にテロリストたちは城の中に潜入し、機密情報を持ち去り、研究所に侵入したということだった。マシアスに会いに行った時、セキュリティを解除しても警報が鳴らなかったのは、丁度テロリストたちがセキュリティをダウンさせた時であったのかもしれない、とニタは勝手に推論を推し進める。
だが、ニタはクグレックが人の話を聞くどころではない様子を見て
「クク、なんか飲む?ココアとかあるよ。」
と、尋ねると、クグレックはコクリと頷いた。しかし、同時に夢の中で焼け爛れた人達が渇きに苦しみ、水を欲する様子がフラッシュバックして、吐き気がしてきた。
「やっぱり、いい。」
クグレックは首を横に振って、ニタの申し出を断った。
「そう…」
しょんぼりとするニタ。
クグレックはニタの様子に気付くことなく、ぼんやりとベッドの上で塞ぎ込む。
ニタはやるせない様子で、クグレックから離れ、ローテーブルの上にある4D2コムを手に取った。慣れた手つきで操作すると、液晶から立体映像が映し出される。4D2コムではトリコ王国が全国民に向けて、国の情報を提供している。天気情報、催事、事件、政治など、様々な情報が映像付きで提供されるのだ。
4D2コムは、雲一つない青空の下、真っ黒に崩壊しつくした研究所の様子を映し出す。そこではガスマスクをつけた救助隊が、研究所に取り残されていた人々の救助活動に精を尽くしていたり、その場で応急手当てをしている人達の姿を映し出しながら、沈痛な面持ちで一人の女性が現場の状況を必死に説明していた。
『本日未明に爆発を起こしたエネルギー研究所は建物は大破し、多くの犠牲者が出たとされています。その人数は未だ調査中ですが、数十名の研究者、作業者たちが体にやけどを負ったり、瓦礫の下敷きになり負傷したとされています。救助隊の懸命な救助活動が行われていますが、爆発の原因については今のところ分かってはおりません。年明け早々、凄惨な事件が発生しております。』
ぼんやりと映像を見つめる無表情のニタ。
研究所で一緒に実験を行った研究員のの無事が気になっていた。担架で運ばれていたり、応急手当されて横たわっている人の中にいるのか、ニタはじっと映像をみつめていた。
しばらくして、ニタの背後から衣擦れの音が聞こえた。クグレックが動き出したのだ。のそのそとニタの隣に座り、一緒に4D2コムからの映像を見つめる。
クグレックは映像を見つめながら、ボロボロと涙を零していた。
「クク…」
ニタは心配そうにクグレックを見つめるが、クグレックは涙を流してばかりでニタを気にする様子がない。ニタは再び映像に視線を戻した。
だが、その瞬間クグレックはようやく口を開いた。
「ニタ、これは、テロリストの仕業じゃない。」
クグレックは涙を零しながらも、抑揚のない声で言った。
「これは、単なる実験の失敗。情報が改竄されてる。」
クグレックの脳裏には青空の下で不敵に微笑むディレィッシュの姿があった。
夢だとはいえ、妙に生々しい印象が残っている。夢の中の爆発の瞬間はおそらく虚構のものだが、研究所が爆発したという事実は夢のものと一緒だ。研究所は廃墟と化し、研究員たちは生死も判別できない凄惨たる状態に追いやられた。この事実だけは夢も現実も同じなのだ。
ディレィッシュがこの爆発に関わりがあるのならば、クグレックにも責任が発生する。
なぜならば、クグレックは何も知らないとはいえディレィッシュの実験に協力してしまったからだ。魔法と科学の融合がより高度なエネルギーを抽出し、暮らしを良くするという名目に協力したのは、間違いなくクグレックだ。魔法の力の良い部分も悪い部分も知っているクグレックなのに、彼女はいとも容易く実験に協力した。
それがこの「失敗」という惨状を引き起こした。
直接的ではないにせよクグレックの力は何の罪もない沢山の人達を殺したのだ。
「…おっちゃんは、ランダムサンプリのテロリストの仕業かも、って言ってたよ。」
ニタは懐疑的な様子で言った。
「ニタ、ちがう。多分、マシアスの言う通り、ディレィッシュは戦争を望んでいる。」
クグレックの涙はとめどなく零れ落ちる。ニタは真剣な表情で、クグレックの言葉に耳を傾ける。
「魔法と科学の力は、あっという間に人の命を奪える。それって、凄く恐ろしいことだよ。」
クグレックは映像を見つめながら、夢の惨状を重ね合わせていた。真っ黒になった人の形をした塊、皮膚が焼けただれ、剥がれ落ちて苦しむ人。ニコニコ微笑んでくれたあの人たちは、もういない。
クグレックの異常な様子に、ニタは困った表情を浮かべた。ニタには小さくため息を吐くと、優しく諭すような口調でクグレックに話しかけた。
「クク、ククが決めたことであるのならば、ニタは力を貸すよ。もしニタで良ければ、言いたいこと、言ってごらん。」
そうニタに優しく言われて、クグレックは憂鬱な気持ちが幾分か和らいだような気がした。
クグレックは少しばかり落ち着いて昨晩見た陰惨な夢の内容を話し始めた。ぽつり、ぽつりと夢の内容を話していくクグレックにニタは横から言葉を挟むことなくしっかりと傾聴していた。
そして、クグレックが夢の内容を話し終えると、ニタは
「つまり、ククはそんな夢を見たからこの爆発はテロリストの仕業ではなく、ディレィッシュの魔法実験の失敗による爆発だって考えているわけだ。それで、魔法実験の失敗は、協力したククにも責任はあるから、なんとかして大量破壊兵器の開発をやめさせて、戦争を回避させたい、ってことだね。」
と、まとめると、クグレックはこくりと頷いた。
「じゃぁ、なんとかしよう。ククがそう言うなら、ニタもそうだと思う。テロリストの仕業じゃない。ディレィッシュの実験失敗による、故意的な爆発だった。」
ニタがクグレックの夢のことを信じてくれたことに、ほっと安心感を覚えた。
「グレックと行動を共にすること。言ったでしょ。ニタはククがいたいところに着いて行くって。ニタにとって、ククの意志が一番重要なんだ。話してくれてありがとう。」
「うん…。ニタ、ありがとう…。」
クグレックの涙は止まった。クグレックは空いている方の手で涙の跡を拭い、そのふかふかで可憐な姿の相棒を頼もしく思った。
「とはいえ、頼みのイスカリオッシュもいないし、今お城は爆発事件の対応でてんやわんやだ。…もう一回マシアスのところに行ってみようか。」
「うん。」
**********
クグレックはエネルギー研究所を訪れた。
研究所の人達は、いつも笑顔でクグレックたちのことを迎えてくれる。マシアスはこの実験は大量破壊兵器の製造に繋がる行為だと言っていたが、研究所の人達はそれを知っているのだろうか。クグレックにはこんな良い人達が裏の意図を知ったうえで高エネルギー発生装置の研究をしているとは考えられなかった。
クグレックは目の前の研究員に試しに聞いてみることにした。
「あの、この研究は、最終的に何に繋がるんですか?」
研究員は意外そうな表情を見せたが、すぐに笑顔になった。いつもは大人しいクグレックが、珍しく自分から声をかけて来たことに喜んでいた。
「科学に魔法を融合させて、高エネルギー発生装置を作るんだ。今のやり方を改良することで、より多くのエネルギーを出力するんだ。これによって、人々の生活がぐっと良くなる。」
「…本当にそれだけですか?」
「…どういうことかな?」
「…いえ。魔法って、機械と同じくらい万能だけど、簡単に人を傷つけることが出来る力でもあるから…、その…」
「確かに、魔法の力は凄い。でも、国際規約でも、魔法の力は兵力にしちゃいけないという決まりがあるんだ。魔法使いたちは自身の力を利用されるのを恐れて、ほとんどがその力を封印してしまった。だから、クグレックさんの魔力は兵器にはなりませんよ。それに、我が国は極度の鎖国政策を取っているから外の国と交流を持つこともない。なおさら外の国と争う必要性は存在しないんだ。だから、安心して大丈夫だよ。」
優しく微笑む研究員。ここの研究員は皆優しい。クグレックは少しだけ安心した。
「でも、王も高エネルギー発生装置の研究、製造を指揮して下さってるから、異常なペースで研究も進み、発生装置に至っては既にプロトタイプは出来上がったんだ。王は、研究者としても、技術者としても本当に凄い方だ。」
その時、クグレックはイスカリオッシュが呟いた言葉を思い出した。
――もしも王が間違った方向に進んでいるのならば、誰が止めることができるでしょうか。
初めて研究所を訪れた時の帰り道にイスカリオッシュがふとつぶやいたこの言葉。
もしかすると、イスカリオッシュもマシアス同様にディレィッシュの狂気に気付きつつあったのかもしれない。
と、その時だった。ドーンという轟音が響くと共に、研究所内はぐらぐらと大きく揺れた。クグレックは立っていられず、思わず床に尻餅を着いた。
「一体、何だ?」
研究員は机に寄り掛かりながら、辺りをきょろきょろ見回すと、室内に装着されているスピーカーからけたたましい警報音が流れ始めた。
――緊急事態、緊急事態。研究員は速やかに退避せよ。緊急事態、緊急事態…
室内の灯りもチカチカと点滅を繰り返し、何かが起きていることを暗示する。
「クグレックさん、逃げましょう。このままでは、危ない。」
研究員は慣れた様子で棚からマスクを取り出すと、まずは自分に装着し、もう一つはクグレックに装着させた。そして、クグレックの腕を取り、避難を行おうとしたその時だった。
再び大きな轟音がした。さっきよりも大きい。そして、何かを考える間もなく、爆風と熱線が二人を襲った。さらに風圧で飛ばされた室内の机や棚の資料なども容赦なくクグレックと研究員にぶつかる。熱い、痛い、苦しい、痛い、熱い…。
消えゆく意識の中、クグレックはニタのことを思い出した。ニタは今どこにいるのだろう。一緒に研究所に来たかどうかも思い出せない。絶体絶命の中、クグレックは喉の渇きを感じ、水が飲みたくなった。だが、すぐに意識は事切れた。
目覚めると、クグレックは外に横たわっていた。
青空が眩しく、太陽の光が熱い。
クグレックは体を起こし、自身の体を確認するが傷一つない。爆風に巻き込まれて、死んだとばかり思っていたが、そうではなかったらしい。まるでメイトーの森で目覚めた時のようだ。
辺りを確認してみると、クグレックは愕然とした。目の前のエネルギー研究所が真っ黒に焼け焦げ朽ち果てているではないか。付近に備わっているソーラーパネルも焼けて焦げて、溶けている。
クグレックは廃墟と化した研究所を見つめて呆然としていた。
ふと傍らに転がっているガスマスクに気付いたクグレックはハッとした。先ほどまで一緒にお話をしていた研究員のことを思い出したのだ。彼は無事だろうか。クグレックはガスマスクを手に取り、生命の反応が全く感じられない研究所へ足を踏み入れた。
研究所は何とも言えない変な匂いがした。焦げた匂いだけではない、苦い臭いや嫌な臭いがする。クグレックは我慢できずにガスマスクを装着して、研究所の中を探索する。壁は崩れ落ち、鉄骨の柱ばかりが残っており、もともとの部屋がどこにあったのかすら分からなくなっていた。床は壁やら資料やらの瓦礫で埋め尽くされおり、歩くのすら困難な状況だ。崩れ落ちた天井の隙間から差し込まれる自然光だけが頼りの薄暗い廃墟で、クグレックは研究員やニタを探す。
廃墟の中を進み、クグレックはある部屋に入った。先ほどまでクグレックがいた部屋だと感じた。この部屋も他の場所と同様壁は崩れ落ちて、棚や資料などが落ちて足の踏み場もない状態だったが、入り口の近くで、とうとう発見してしまった。他の瓦礫とは異なるその塊。人間ほどの大きさの真っ黒な塊。クグレックは動悸が早くなるのを感じた。すぐそばにはクグレックが装着しているガスマスクと同じものが、真っ黒に焦げた状態で転がっている。
クグレックは呼吸を荒くさせながら、人の形をした黒いものに触れた。真っ黒に焦げているので、誰なのか判別することは出来ない。ただ、おそらく先ほどまでお話していた研究員であることだけはクグレックの勘で分かった。あんなにやさしい人だったのに、こうなってはただの黒い塊だ。さっきまでは生きていたのに。
クグレックは胃の中から何かがせり上がって来そうだったのを唾を呑みこんで我慢した。
野宿をしていた頃、ニタが野生動物を狩って来て、満足げに置いて行くことが多々あったが、どうしても慣れないことの1つだった。冷たく固くなった野生動物の目は何も映さない。光を宿すことなく空を向いているだけで、クグレックはそれが怖くて仕方なかった。
クグレックは覚束ない足取りでその場から離れる。
ふらふら廃墟となった研究所内を歩いていると、クグレックは周りの状況にようやく気付いた。そこかしこに落ちている瓦礫は全て研究所内の壁や床、室内にあった機械や棚の残骸だと思っていたが、よく見るとそうではなかった。その中には先ほど見た様な黒い人型の塊も多く存在した。
この研究所にいた研究員は皆、突然の何かに巻き込まれ、最後の言葉を残すことなく死んでいったのだ。クグレックは耐え切れず悲鳴を上げて、元研究所内を走り、外に出た。しかし、外に出てみても、地獄はまだ続いていた。
ソーラーパネルの下に人影を見つけ、クグレックは生存者だろうと思って、駆け寄ったが、そこにいたのは服や髪は焼け焦げ、皮膚はドロドロに溶け、うめき声をあげる人の姿だった。クグレックは小さく悲鳴を上げた。
「水、水を…。」
悲惨な状態だが、目の前の男は生きていた。焦げた匂いの中に感じた嫌な臭いはこの匂いだった。
クグレックは自分の荷物の中に水はないか探したが、鞄の中身は全て焼け焦げており、水は入っていなかった。
クグレックは震える声で「ごめんなさい、水は、今ないの」と言った。
ソーラーパネルの下には、辛うじて生き延びている研究員の姿が多数あった。皆悲惨な状態で、うめき声を上げている。
クグレックは後ずさりをし、この場から離れようとした。が、クグレックは何かにぶつかった。
振り向くと、そこにはトリコ王ディレィッシュがいた。
彼はクグレックと同様に、何の外傷もなく綺麗なままだった。無表情でクグレックを見下ろしている。
「ディレィッシュ…!一体何が起きたの?」
「高エネルギー発生装置が誤作動を起こし、爆発した。」
「爆発…!」
ディレィッシュはにこりと微笑んだ。
「実験には失敗もつきものだからね。…最高の技術の結晶がこれから出来上がるんだ。多少の犠牲は仕方がない。」
クグレックは思わずディレィッシュから離れた。狂っている。
「どうした、クグレック。真の完成にはお前の力が必要なんだ。全てを私の支配下に置いて、世界の理を手に入れようではないか。」
微笑みながら、ディレィッシュはクグレックに向かって手を差し出す。しかし、クグレックは小さく首を横に振り、一歩、また一歩とディレィッシュから後ずさる。
「魔女クグレック、お前はそのためにこのトリコ王国に呼ばれたのだ。さぁ、一緒に行こう。」
にじり寄って来るディレイッシュに、クグレックは後ずさりをするが、足をもつれさせて、尻餅を着いて転んでしまった。
近付いて来るディレィッシュに恐怖を覚えたクグレックは体が震えて立ち上がることも出来ない。
ディレィッシュの背後に何か黒い靄が見えるのだ。その靄は禍々しく忌々しいオーラを発して、ディレィッシュに取り憑いているようだった。
「イヤ!やだ!来ないで!」
照りつく太陽が浮かぶ青空に、クグレックの叫び声が響いた。
そして、同時に彼女は気付いた。
――あぁ、これは悪夢だ。だって、研究所にはいつもニタと一緒に行っていたのに、ニタがいない。ニタがいない世界は単なる夢に過ぎない。目を覚まさなきゃ。
クグレックはエネルギー研究所を訪れた。
研究所の人達は、いつも笑顔でクグレックたちのことを迎えてくれる。マシアスはこの実験は大量破壊兵器の製造に繋がる行為だと言っていたが、研究所の人達はそれを知っているのだろうか。クグレックにはこんな良い人達が裏の意図を知ったうえで高エネルギー発生装置の研究をしているとは考えられなかった。
クグレックは目の前の研究員に試しに聞いてみることにした。
「あの、この研究は、最終的に何に繋がるんですか?」
研究員は意外そうな表情を見せたが、すぐに笑顔になった。いつもは大人しいクグレックが、珍しく自分から声をかけて来たことに喜んでいた。
「科学に魔法を融合させて、高エネルギー発生装置を作るんだ。今のやり方を改良することで、より多くのエネルギーを出力するんだ。これによって、人々の生活がぐっと良くなる。」
「…本当にそれだけですか?」
「…どういうことかな?」
「…いえ。魔法って、機械と同じくらい万能だけど、簡単に人を傷つけることが出来る力でもあるから…、その…」
「確かに、魔法の力は凄い。でも、国際規約でも、魔法の力は兵力にしちゃいけないという決まりがあるんだ。魔法使いたちは自身の力を利用されるのを恐れて、ほとんどがその力を封印してしまった。だから、クグレックさんの魔力は兵器にはなりませんよ。それに、我が国は極度の鎖国政策を取っているから外の国と交流を持つこともない。なおさら外の国と争う必要性は存在しないんだ。だから、安心して大丈夫だよ。」
優しく微笑む研究員。ここの研究員は皆優しい。クグレックは少しだけ安心した。
「でも、王も高エネルギー発生装置の研究、製造を指揮して下さってるから、異常なペースで研究も進み、発生装置に至っては既にプロトタイプは出来上がったんだ。王は、研究者としても、技術者としても本当に凄い方だ。」
その時、クグレックはイスカリオッシュが呟いた言葉を思い出した。
――もしも王が間違った方向に進んでいるのならば、誰が止めることができるでしょうか。
初めて研究所を訪れた時の帰り道にイスカリオッシュがふとつぶやいたこの言葉。
もしかすると、イスカリオッシュもマシアス同様にディレィッシュの狂気に気付きつつあったのかもしれない。
と、その時だった。ドーンという轟音が響くと共に、研究所内はぐらぐらと大きく揺れた。クグレックは立っていられず、思わず床に尻餅を着いた。
「一体、何だ?」
研究員は机に寄り掛かりながら、辺りをきょろきょろ見回すと、室内に装着されているスピーカーからけたたましい警報音が流れ始めた。
――緊急事態、緊急事態。研究員は速やかに退避せよ。緊急事態、緊急事態…
室内の灯りもチカチカと点滅を繰り返し、何かが起きていることを暗示する。
「クグレックさん、逃げましょう。このままでは、危ない。」
研究員は慣れた様子で棚からマスクを取り出すと、まずは自分に装着し、もう一つはクグレックに装着させた。そして、クグレックの腕を取り、避難を行おうとしたその時だった。
再び大きな轟音がした。さっきよりも大きい。そして、何かを考える間もなく、爆風と熱線が二人を襲った。さらに風圧で飛ばされた室内の机や棚の資料なども容赦なくクグレックと研究員にぶつかる。熱い、痛い、苦しい、痛い、熱い…。
消えゆく意識の中、クグレックはニタのことを思い出した。ニタは今どこにいるのだろう。一緒に研究所に来たかどうかも思い出せない。絶体絶命の中、クグレックは喉の渇きを感じ、水が飲みたくなった。だが、すぐに意識は事切れた。
目覚めると、クグレックは外に横たわっていた。
青空が眩しく、太陽の光が熱い。
クグレックは体を起こし、自身の体を確認するが傷一つない。爆風に巻き込まれて、死んだとばかり思っていたが、そうではなかったらしい。まるでメイトーの森で目覚めた時のようだ。
辺りを確認してみると、クグレックは愕然とした。目の前のエネルギー研究所が真っ黒に焼け焦げ朽ち果てているではないか。付近に備わっているソーラーパネルも焼けて焦げて、溶けている。
クグレックは廃墟と化した研究所を見つめて呆然としていた。
ふと傍らに転がっているガスマスクに気付いたクグレックはハッとした。先ほどまで一緒にお話をしていた研究員のことを思い出したのだ。彼は無事だろうか。クグレックはガスマスクを手に取り、生命の反応が全く感じられない研究所へ足を踏み入れた。
研究所は何とも言えない変な匂いがした。焦げた匂いだけではない、苦い臭いや嫌な臭いがする。クグレックは我慢できずにガスマスクを装着して、研究所の中を探索する。壁は崩れ落ち、鉄骨の柱ばかりが残っており、もともとの部屋がどこにあったのかすら分からなくなっていた。床は壁やら資料やらの瓦礫で埋め尽くされおり、歩くのすら困難な状況だ。崩れ落ちた天井の隙間から差し込まれる自然光だけが頼りの薄暗い廃墟で、クグレックは研究員やニタを探す。
廃墟の中を進み、クグレックはある部屋に入った。先ほどまでクグレックがいた部屋だと感じた。この部屋も他の場所と同様壁は崩れ落ちて、棚や資料などが落ちて足の踏み場もない状態だったが、入り口の近くで、とうとう発見してしまった。他の瓦礫とは異なるその塊。人間ほどの大きさの真っ黒な塊。クグレックは動悸が早くなるのを感じた。すぐそばにはクグレックが装着しているガスマスクと同じものが、真っ黒に焦げた状態で転がっている。
クグレックは呼吸を荒くさせながら、人の形をした黒いものに触れた。真っ黒に焦げているので、誰なのか判別することは出来ない。ただ、おそらく先ほどまでお話していた研究員であることだけはクグレックの勘で分かった。あんなにやさしい人だったのに、こうなってはただの黒い塊だ。さっきまでは生きていたのに。
クグレックは胃の中から何かがせり上がって来そうだったのを唾を呑みこんで我慢した。
野宿をしていた頃、ニタが野生動物を狩って来て、満足げに置いて行くことが多々あったが、どうしても慣れないことの1つだった。冷たく固くなった野生動物の目は何も映さない。光を宿すことなく空を向いているだけで、クグレックはそれが怖くて仕方なかった。
クグレックは覚束ない足取りでその場から離れる。
ふらふら廃墟となった研究所内を歩いていると、クグレックは周りの状況にようやく気付いた。そこかしこに落ちている瓦礫は全て研究所内の壁や床、室内にあった機械や棚の残骸だと思っていたが、よく見るとそうではなかった。その中には先ほど見た様な黒い人型の塊も多く存在した。
この研究所にいた研究員は皆、突然の何かに巻き込まれ、最後の言葉を残すことなく死んでいったのだ。クグレックは耐え切れず悲鳴を上げて、元研究所内を走り、外に出た。しかし、外に出てみても、地獄はまだ続いていた。
ソーラーパネルの下に人影を見つけ、クグレックは生存者だろうと思って、駆け寄ったが、そこにいたのは服や髪は焼け焦げ、皮膚はドロドロに溶け、うめき声をあげる人の姿だった。クグレックは小さく悲鳴を上げた。
「水、水を…。」
悲惨な状態だが、目の前の男は生きていた。焦げた匂いの中に感じた嫌な臭いはこの匂いだった。
クグレックは自分の荷物の中に水はないか探したが、鞄の中身は全て焼け焦げており、水は入っていなかった。
クグレックは震える声で「ごめんなさい、水は、今ないの」と言った。
ソーラーパネルの下には、辛うじて生き延びている研究員の姿が多数あった。皆悲惨な状態で、うめき声を上げている。
クグレックは後ずさりをし、この場から離れようとした。が、クグレックは何かにぶつかった。
振り向くと、そこにはトリコ王ディレィッシュがいた。
彼はクグレックと同様に、何の外傷もなく綺麗なままだった。無表情でクグレックを見下ろしている。
「ディレィッシュ…!一体何が起きたの?」
「高エネルギー発生装置が誤作動を起こし、爆発した。」
「爆発…!」
ディレィッシュはにこりと微笑んだ。
「実験には失敗もつきものだからね。…最高の技術の結晶がこれから出来上がるんだ。多少の犠牲は仕方がない。」
クグレックは思わずディレィッシュから離れた。狂っている。
「どうした、クグレック。真の完成にはお前の力が必要なんだ。全てを私の支配下に置いて、世界の理を手に入れようではないか。」
微笑みながら、ディレィッシュはクグレックに向かって手を差し出す。しかし、クグレックは小さく首を横に振り、一歩、また一歩とディレィッシュから後ずさる。
「魔女クグレック、お前はそのためにこのトリコ王国に呼ばれたのだ。さぁ、一緒に行こう。」
にじり寄って来るディレイッシュに、クグレックは後ずさりをするが、足をもつれさせて、尻餅を着いて転んでしまった。
近付いて来るディレィッシュに恐怖を覚えたクグレックは体が震えて立ち上がることも出来ない。
ディレィッシュの背後に何か黒い靄が見えるのだ。その靄は禍々しく忌々しいオーラを発して、ディレィッシュに取り憑いているようだった。
「イヤ!やだ!来ないで!」
照りつく太陽が浮かぶ青空に、クグレックの叫び声が響いた。
そして、同時に彼女は気付いた。
――あぁ、これは悪夢だ。だって、研究所にはいつもニタと一緒に行っていたのに、ニタがいない。ニタがいない世界は単なる夢に過ぎない。目を覚まさなきゃ。
事態はきな臭いことになっているということに、クグレックはようやく気が付いた。ニタに至っては、執拗にマシアスの情報を欲していたし会おうとしていた。ニタの持つ鋭い勘が既にこの事態を嗅ぎ付けていたのかもしれない。
「まさか、ディレィッシュがそんなことを企てていたなんて。」
「あの人は数か月前から変だった。リタルダンドから戻って来てすぐ、あの人のラボに行ったら、偶然大量破壊兵器の資料を発見してしまったのをあの人に見られてしまった。それから俺はピアノ商会での傷が悪化したために療養しているという名目で監禁された。」
「じゃぁ、ククがこの扉を開けてあげるよ!」
ニタが自信満々に言ったが、マシアスはそれを制止した。
「やめた方が良い。お前たちが魔法でこの扉を開けたら、おそらく、セキュリティーシステムが発動するだろう。城中の兵士たちがここに集まる。」
「でも、ここまで来るのに、魔法でセキュリティを解除したよ?」
「…そうなのか?それはおかしい。魔法で解除したとしても、おそらく扉が開いたということは、データに上がり、緊急事態になるはずなのに。もしかすると…、あぁ、そういうことか。」
「どういうこと?」
「クグレックの魔法が高尚なのか、王がお前たちを陥れようとしているのかのどちらかだ。」
王は、ディレィッシュは、まるで一国の主だと感じさせないくらいに、気さくでフレンドリーだった。確かに変人なところはあるが、それもまた愛嬌だとクグレックは思っていた。それになにより、クグレックはアッチェレの宿屋で会った時の全てを許してしまえる優しい笑顔が忘れられなかった。あんな表情になれる人が、どうして大量破壊兵器を作り、実の弟を監禁するのだろう。もしここにディレィッシュがいて、マシアスとディレィッシュどちらを信じるかと言われたら、ディレィッシュと答えたくなるほどに、マシアスの話を信じたくはなかった。
「ニタ達は一体どうしたら良い?」
弱弱しい声でニタが尋ねた。ニタも想定外の事態に憔悴している。
「イスカリオッシュに助けを求めろ。アイツならば、いや、俺を除けば今トリコ王国にいる中で、あいつだけが、ディレィッシュに意見を言える立場の人間だ。イスカリオッシュは、俺が幽閉されていることを知らない。俺の体調が良くない程度しか知らないだろう。」
「分かった。新年会にイスカリオッシュがいたから、話してみる。」
「あぁ。よろしく頼む。…王には気付かれないように。気をつけろ。」
「分かった。」
「健闘を祈る。」
ニタとクグレックは背を向けて、金細工と極彩色の細密彫刻が模られた荘厳な扉から遠ざかって行った。
新年を迎えて賑やかに騒いでいる新年会会場へ戻るが、そこにはイスカリオッシュの姿はなかった。会の最初にディレィッシュの挨拶の後に、イスカリオッシュの挨拶があったので、確かにこの会場にいたはずなのだが、どこにも見当たらない。
ディレィッシュは相変わらず楽しそうに新年会を楽しんでいるというのに。
「お前達、何を探しているんだ?」
二人の前に王の側近クライドが現れた。相変わらず冷たい眼差しを二人に向けて来る。
「え、うん、イスカリオッシュはどこいったのかなって。」
「イスカリオッシュ様は北部エネルギー発電所に向かった。北部エネルギー発電所は辺境にある。そこで新年早々勤務している者達を泊まり込みで慰労するのが、毎年彼が行っていることだ。物好きな方だ。」
「泊まり込み?」
ニタとクグレックはお互いに見合わせた。イスカリオッシュにはすぐに会うことが出来ないことが判明したからだ。
困ったような表情を浮かべる二人にクライドは眉根を寄せた。
「イスカリオッシュ様も優しいからお前たちは勘違いしてしまうだろうが、あの方もトリコ王家の血が流れる方だ。そう易々とお前たちに時間を与えてやれるわけでもない。」
「む、む。そうだけど…。」
クライドに正論を言われてしょんぼりとするニタ。
その後、何故かクライドは二人のそばを離れることなくいたので、なんとなく色々と詮索することが憚られ、二人は成す統べもなく、ただ新年会を楽しむことしかできなかった。ただ、料理はおいしかった。