********
そして、日が沈み、デンキジドウシャは国境ゲートまでやって来た。
国境ゲートには大きな壁がそびえ立ち、何人の侵入も許さない。
本来であれば、トリコ王国兵が国境ゲートで常に監視の目を光らせているが、イスカリオッシュの指示で、全員待避させた。その代わり、トリコ王国軍団長クライドが待機していた。ディレィッシュがいない世界では、彼は親衛隊ではなかった。そして、既に、ディレィッシュたちの記憶もなくなっている。クライドの青い瞳はイスカリオッシュが連れて来た4人の来賓を怪訝そうに見つめていた。
「この者達は?」
クライドがイスカリオッシュに尋ねる。
イスカリオッシュはにっこりと微笑みながら
「私の大切な人達です。大切、いや、愛する人たちですね。クライドもそうでしょう。」
といった。クライドは理解出来ないと言うように眉間に皺を寄せた。
「これから起きることは、私とあなただけの秘密です。覚えていないかもしれませんが、クライド、あなたはこの御方を敬愛していました。だから、しっかりと送り出してあげてください。」
クライドは不快そうな表情を浮かべて、イスカリオッシュを見つめた。
警戒心を隠すことのないクライドだったが、ディレィッシュは気にすることなくふらふらとクライドに近付く。
「クライド、…ありがとう。故郷を捨てて、私を選んでくれて。お前は私の唯一の“友達”だった。」
ディレィッシュはにやりと悪戯っぽく微笑んで、クライドの頭をぽんぽんと撫でた。
クライドは終始ディレィッシュのことを睨み付けていたが、不思議と自身の頭を撫でる手を払いのけることはしなかった。
ひとしきり撫で終えると、ディレィッシュはゲートにある装置を弄り始めた。彼が存在していた頃よりもグレードが落ちたセキュリティシステムであれば、ハッキングは可能だった。だが、それは今この世の中ではディレィッシュしか出来ない。トリコ王国のセキュリティシステムに引っかかることなく、ゲートは開錠した。
「さ、行こうか。」
ゲートが開くと、ディレィッシュは飄々とした様子で歩き始めた。
ニタとクグレックは小走りでその後に着いて行った。一方でマシアスは、イスカリオッシュと抱擁を交わしていた。もう間もなく2人の兄の記憶を失くしてしまう弟を、もう二度と会うことのないだろう弟と別れを惜しんで必死に抱きしめていた。
「ハーミッシュ!」
ディレィッシュに呼ばれ、マシアスはイスカリオッシュを離して、背を向けて歩き始めた。
イスカリオッシュは4人の後を追った。
「私の大切なディッシュ兄さんとハッシュ兄さん!私はもうじきあなた達のことを忘れてしまうけど、それでもトリコ王国の民として、貴方たちから受け継いだトリコ王国の意志を守っていきましょう。だから、安心してください。安心して生きて、生き延びて下さい!」
イスカリオッシュは力の限り叫び尽した。
そんなイスカリオッシュの様子を二人の兄は微笑みながら見つめる。そして、大きく手を振り
「頑張れよ!」
と返した。
その瞬間、ゲートはガシャンと大きな音を立ててしまり、静寂が戻った。
「…私は、何故ここに?」
トリコ王国国王イスカリオッシュがハッとした様子で言った。
クライドはトリコ王に近付き、何も言わずにそのまま傍に佇んだ。
「クライド?…クライド、あなた…」
トリコ王イスカリオッシュはクライドのほうを振り向き、そして、驚いた。
冷静沈着でいつも寡黙、感情を滅多に表に出さないクライドが涙を流していた。
クライドはイスカリオッシュが驚いたことで初めて自身が涙を流していたことに気付き、慌てて涙を拭う。しかし、涙はとめどなく溢れて来た。
イスカリオッシュもつられて涙を流した。
「あぁ、なんだか私は甘美な夢でも見ていたようですね。さぁ、城に戻りましょう。運転は私にさせてください。」
「王、あまり、城を抜け出すのはよくありません。」
「ふふ、そうですね。」
そして、二人は旧式のデンキジドウシャに乗り込んで、城へと戻る。
「クライド、なんだか私は、なにか大切なものを忘れてしまったような気がするんです。不思議な感じですね。」
クライドに話しかけたところで、望む返事が返って来るどころか返事が返って来ることも稀だった。それでも、トリコ王は胸の内を明かしたかった。
クライドは沈黙を貫くが、しばらくしてぽつりと「不思議と自分も同じ気持ちです。」と答えた。
イスカリオッシュと同じ水色の瞳を持った優男に頭を撫でられた時、とても懐かしい気持ちになった。クライドもなにか大切なことを忘れてしまったような気がして、どこか落ち着かない。不思議な気持ちだった。
箱型のデンキジドウシャは大きなエンジン音を発して夜の砂漠を駈けて行く。
誰かが欠けてしまったが、トリコ王国は正常に時間を進めて行く。
歴史に残ることのないトリコ王が望むかたちで。
――第4章、完。
そして、日が沈み、デンキジドウシャは国境ゲートまでやって来た。
国境ゲートには大きな壁がそびえ立ち、何人の侵入も許さない。
本来であれば、トリコ王国兵が国境ゲートで常に監視の目を光らせているが、イスカリオッシュの指示で、全員待避させた。その代わり、トリコ王国軍団長クライドが待機していた。ディレィッシュがいない世界では、彼は親衛隊ではなかった。そして、既に、ディレィッシュたちの記憶もなくなっている。クライドの青い瞳はイスカリオッシュが連れて来た4人の来賓を怪訝そうに見つめていた。
「この者達は?」
クライドがイスカリオッシュに尋ねる。
イスカリオッシュはにっこりと微笑みながら
「私の大切な人達です。大切、いや、愛する人たちですね。クライドもそうでしょう。」
といった。クライドは理解出来ないと言うように眉間に皺を寄せた。
「これから起きることは、私とあなただけの秘密です。覚えていないかもしれませんが、クライド、あなたはこの御方を敬愛していました。だから、しっかりと送り出してあげてください。」
クライドは不快そうな表情を浮かべて、イスカリオッシュを見つめた。
警戒心を隠すことのないクライドだったが、ディレィッシュは気にすることなくふらふらとクライドに近付く。
「クライド、…ありがとう。故郷を捨てて、私を選んでくれて。お前は私の唯一の“友達”だった。」
ディレィッシュはにやりと悪戯っぽく微笑んで、クライドの頭をぽんぽんと撫でた。
クライドは終始ディレィッシュのことを睨み付けていたが、不思議と自身の頭を撫でる手を払いのけることはしなかった。
ひとしきり撫で終えると、ディレィッシュはゲートにある装置を弄り始めた。彼が存在していた頃よりもグレードが落ちたセキュリティシステムであれば、ハッキングは可能だった。だが、それは今この世の中ではディレィッシュしか出来ない。トリコ王国のセキュリティシステムに引っかかることなく、ゲートは開錠した。
「さ、行こうか。」
ゲートが開くと、ディレィッシュは飄々とした様子で歩き始めた。
ニタとクグレックは小走りでその後に着いて行った。一方でマシアスは、イスカリオッシュと抱擁を交わしていた。もう間もなく2人の兄の記憶を失くしてしまう弟を、もう二度と会うことのないだろう弟と別れを惜しんで必死に抱きしめていた。
「ハーミッシュ!」
ディレィッシュに呼ばれ、マシアスはイスカリオッシュを離して、背を向けて歩き始めた。
イスカリオッシュは4人の後を追った。
「私の大切なディッシュ兄さんとハッシュ兄さん!私はもうじきあなた達のことを忘れてしまうけど、それでもトリコ王国の民として、貴方たちから受け継いだトリコ王国の意志を守っていきましょう。だから、安心してください。安心して生きて、生き延びて下さい!」
イスカリオッシュは力の限り叫び尽した。
そんなイスカリオッシュの様子を二人の兄は微笑みながら見つめる。そして、大きく手を振り
「頑張れよ!」
と返した。
その瞬間、ゲートはガシャンと大きな音を立ててしまり、静寂が戻った。
「…私は、何故ここに?」
トリコ王国国王イスカリオッシュがハッとした様子で言った。
クライドはトリコ王に近付き、何も言わずにそのまま傍に佇んだ。
「クライド?…クライド、あなた…」
トリコ王イスカリオッシュはクライドのほうを振り向き、そして、驚いた。
冷静沈着でいつも寡黙、感情を滅多に表に出さないクライドが涙を流していた。
クライドはイスカリオッシュが驚いたことで初めて自身が涙を流していたことに気付き、慌てて涙を拭う。しかし、涙はとめどなく溢れて来た。
イスカリオッシュもつられて涙を流した。
「あぁ、なんだか私は甘美な夢でも見ていたようですね。さぁ、城に戻りましょう。運転は私にさせてください。」
「王、あまり、城を抜け出すのはよくありません。」
「ふふ、そうですね。」
そして、二人は旧式のデンキジドウシャに乗り込んで、城へと戻る。
「クライド、なんだか私は、なにか大切なものを忘れてしまったような気がするんです。不思議な感じですね。」
クライドに話しかけたところで、望む返事が返って来るどころか返事が返って来ることも稀だった。それでも、トリコ王は胸の内を明かしたかった。
クライドは沈黙を貫くが、しばらくしてぽつりと「不思議と自分も同じ気持ちです。」と答えた。
イスカリオッシュと同じ水色の瞳を持った優男に頭を撫でられた時、とても懐かしい気持ちになった。クライドもなにか大切なことを忘れてしまったような気がして、どこか落ち着かない。不思議な気持ちだった。
箱型のデンキジドウシャは大きなエンジン音を発して夜の砂漠を駈けて行く。
誰かが欠けてしまったが、トリコ王国は正常に時間を進めて行く。
歴史に残ることのないトリコ王が望むかたちで。
――第4章、完。
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「いま、この世界は『ディレィッシュとハーミッシュが存在しなかった世界』なんだ。」
クグレックはさらに首を傾げ、混乱した。
「私は、ある賭けに出て、魔を自身から追い払うことが出来た。だが、それはそもそも双方共倒れの方法で、消滅したくなかった魔は最期の力を使って、お互いに生き残る道を取ったのだ。それが、彼の究極の情報操作。彼は今の世界を『ディレィッシュとハーミッシュが存在しなかった世界』に書き換えた。書き換えた、というか、吸い取られた、というか。私達は生きてはいるが、私達の存在は誰一人として、知らない。それは、私達が存在しない世界だからだ。」
「え?」
「本当は私だけであってほしかったのだけど、書き換えるためのエネルギーとして私の情報は全て持って行かれたのだ。ただ、私の情報だけでは足りずに、ハーミッシュの情報も必要となって、ハーミッシュまでもが犠牲になってしまった。」
クグレックは混乱した。一眠りしていた間に、こんなにも簡単に、そして軽率に、世界が変わってしまうことがあり得るのだろうか。もともとディレィッシュは変わった性格をしている。クグレックは、彼が変な冗談を言っているのだと思わずにはいられなかった。
「そ、そんな。じゃぁ、トリコ王国はどうなったの?」
ディレィッシュはにこりと微笑んだ。
「無論存在している。私が生まれる前からトリコ王国は存在していたのだ。私がいなくなろうと、トリコ王国は存在し続ける。そして、イスカリオッシュが国王となり、トリコ王国は永劫繁栄し続けるだろう。私が存在しないが故に、ランダムサンプリとの諍いもなかったことになった。」
「でもディレィッシュたちはどうなるの?」
「今、この世界のトリコ王国の王はイスカリオッシュだ。我々はトリコ王国民でもなければ、何でもない。」
後部座席に座るクグレックとディレィッシュの間のニタが話に混ざって来た。
「ねぇ、イスカリオッシュが王様なら、トリコ王国国民にしてもらえばいいじゃん。元兄弟ってことで。別に何でもない存在になる必要はないんじゃない?」
「それが、ダメなんだ。」
ディレィッシュは笑みを湛えるも、どこか寂しそうな表情であった。
「イスカリオッシュも今日が終われば私達がいた記憶を失くして、世界と同調する。トリコ王国がセキュリティレベルが高いのは私が生まれる前からのことだった。だから、身分も身内もいない私達がいたら、部外者として処分の対象になるだけだ。」
「だから、私は最後のお手伝いですよ。私は、……大好きな兄たちのこと、忘れたくないんですけどね。」
しみじみと語るイスカリオッシュ。しかし、クグレックはバックミラー越しにいつも朗らかなイスカリオッシュの表情が、静かに曇っていく様子を見逃さなかった。
「でも、イスカリオッシュだけなんだ。この時間を与えられたのは。他の皆はもう、私達のことなど知らない。だから、今日中に私達は、トリコ王国を離れなければならない。」
「その後は、どうするの?」
「お前たちと一緒にアルトフールを探すよ。」
「え!」
「ほら、ペポ族と年頃の女の子じゃ色々危険だろう、だから、私達がボディガードになってやるんだ。」
「ディッシュ、お前は誰かを守れるくらい、体力もなければ腕っぷしもないだろう。」
助手席に乗っていたマシアスが後ろを向いて呆れたように言った。
「ははは、そうですね。王様じゃないディレィッシュ兄さんはただのもやしっ子ですね。」
それにイスカリオッシュも同調して、笑顔になった。
「その代わり、天才的な頭を持っていたから、トリコ王国をあそこまで発展できたんです。あなたがいなければ、デンキジドウシャだってこの通りうるさいし、燃費も悪い。シートだってふかふかじゃない。」
つまり、ディレィッシュの頭はトリコ王国を技術面で大きく発展させた。ディレィッシュがいない世界では、テクノロジーを発展させる人間がいないが故に、デンキジドウシャもそこまで快適なものにはならず、同時にエネルギー対策というのもディレィッシュの時代ほど整っていない。
だから、エネルギー高炉はなくなり、その更地にクグレックとニタは眠っていたのだ。
静かになるとイスカリオッシュは寂しそうな表情になる。刻一刻と迫る兄弟との別れの時間が怖いのだろう。
「ねぇ、マシアスは、どう思っているの?自分の存在をなかったことにされて、嫌じゃないの?」
ニタがぽつりとマシアスに尋ねた。それはクグレックも気になっていたことだった。
「まぁ、寂しいな。だけど、俺の存在までで済むのならなにも問題はない。俺の存在がなくなるだけで、どん底の状態を迎えるトリコ王国が元に戻ったんだ。それに、王位はイスカリオッシュが継いでいる。なにか問題でもあるのか?」
きょとんとしながら聞き返すマシアス。
「いや、だって、住む場所とかなくなるんだよ。嫌じゃないの?」
「…別に、なんの気兼ねもなしに王宮暮らしから離れられるのは正直嬉しくもある。自由に生きるのが夢でもあったから。」
「私もだ!」
嬉しそうに同調するディレィッシュ。
「いや、兄貴は多分庶民の暮らしには文句垂れまくると思う。そうじゃなきゃ、あそこまで技術を発展させようとしない。生来面倒臭がりなんだ、」
「いや、そんなことはない。私だって、自由に暮らしたかった。」
その言葉を聞いたマシアスは一瞬はっとして口を噤んだ。確かに、ディレィッシュは王として生き続けて来た。そこに彼にとって本当に自由な時間など存在しなかったのかもしれない。
「…まぁ、自分で決めた道だし、自由に進めばいいじゃないか。」
マシアスが申し訳なさそうに言った。王の弟ではなく、ディレィッシュの弟として、マシアスは彼の幸せを望みたかった。これまでトリコ王国のために費やしてきたのだから、彼は本当の意味で自分のために時間を使うべきなのだ。今までの彼は小さなプライベートラボでのみ自由を許されていたが、もう、そうではないのだ。
「あぁ、私の人生、まだまだこれからだからな。機械いじりだって、その気になればいつだってできる。」
嬉しそうに語るディレィッシュ。
「あ。そうだ。」
マシアスが再び振り返って、後部座席に向かって声をかける。
「なんだ?ハーミッシュ。」
「…あぁ、それでいいんだ。ニタとクグレック、俺の名はハーミッシュだ。訳あって、マシアスという名を使っていたが、それはただの偽名だ。…もしよければ、俺のことはマシアスではなく、ハーミッシュと呼んでくれないか?名前だけが俺の最後の証だから。」
「ハーミッシュ…。」
ニタが呟く。が、ニタの眉間には皺が寄って行った。
「ハーミッシュも、ディレィッシュも長い。呼びづらい。」
不機嫌そうな表情で、ニタが言った。
マシアス、ことハーミッシュは、はははと笑いながら
「じゃぁ、俺のことはハッシュと呼べば良い。ディレィッシュも長いから、ディッシュでいいんじゃないか?」
と提案すると、ニタはそれを「分かった」と承諾した。
「じゃぁ、クク、この身寄りのない兄弟も一緒にアルトフールに連れて行ってあげようか。」
ニタが言った。
クグレックは「うん」と大きく頷いた。
奇妙な運命ではあるが、これも何かの縁なのだ。
彼らは当然の如く運命を受け入れる。生まれ故郷や兄弟、大切なものを一挙になくすことになった二人だったが、彼らはその困難を楽しんですらいるようだった。その様子をみたら、クグレックも二人と共に歩みたくなった。
依然としてアルトフールがどこにあるかは分からないままだが、この二人がいてくれれば心強い。特にハッシュは良識もあるし、これまでずっと二人のことを助けてくれた。ディレィッシュだって、非常に博識だ。きっといろいろなことを教えてくれるだろう。
還る場所がない4人は還る場所を探しに行く。
クグレックはさらに首を傾げ、混乱した。
「私は、ある賭けに出て、魔を自身から追い払うことが出来た。だが、それはそもそも双方共倒れの方法で、消滅したくなかった魔は最期の力を使って、お互いに生き残る道を取ったのだ。それが、彼の究極の情報操作。彼は今の世界を『ディレィッシュとハーミッシュが存在しなかった世界』に書き換えた。書き換えた、というか、吸い取られた、というか。私達は生きてはいるが、私達の存在は誰一人として、知らない。それは、私達が存在しない世界だからだ。」
「え?」
「本当は私だけであってほしかったのだけど、書き換えるためのエネルギーとして私の情報は全て持って行かれたのだ。ただ、私の情報だけでは足りずに、ハーミッシュの情報も必要となって、ハーミッシュまでもが犠牲になってしまった。」
クグレックは混乱した。一眠りしていた間に、こんなにも簡単に、そして軽率に、世界が変わってしまうことがあり得るのだろうか。もともとディレィッシュは変わった性格をしている。クグレックは、彼が変な冗談を言っているのだと思わずにはいられなかった。
「そ、そんな。じゃぁ、トリコ王国はどうなったの?」
ディレィッシュはにこりと微笑んだ。
「無論存在している。私が生まれる前からトリコ王国は存在していたのだ。私がいなくなろうと、トリコ王国は存在し続ける。そして、イスカリオッシュが国王となり、トリコ王国は永劫繁栄し続けるだろう。私が存在しないが故に、ランダムサンプリとの諍いもなかったことになった。」
「でもディレィッシュたちはどうなるの?」
「今、この世界のトリコ王国の王はイスカリオッシュだ。我々はトリコ王国民でもなければ、何でもない。」
後部座席に座るクグレックとディレィッシュの間のニタが話に混ざって来た。
「ねぇ、イスカリオッシュが王様なら、トリコ王国国民にしてもらえばいいじゃん。元兄弟ってことで。別に何でもない存在になる必要はないんじゃない?」
「それが、ダメなんだ。」
ディレィッシュは笑みを湛えるも、どこか寂しそうな表情であった。
「イスカリオッシュも今日が終われば私達がいた記憶を失くして、世界と同調する。トリコ王国がセキュリティレベルが高いのは私が生まれる前からのことだった。だから、身分も身内もいない私達がいたら、部外者として処分の対象になるだけだ。」
「だから、私は最後のお手伝いですよ。私は、……大好きな兄たちのこと、忘れたくないんですけどね。」
しみじみと語るイスカリオッシュ。しかし、クグレックはバックミラー越しにいつも朗らかなイスカリオッシュの表情が、静かに曇っていく様子を見逃さなかった。
「でも、イスカリオッシュだけなんだ。この時間を与えられたのは。他の皆はもう、私達のことなど知らない。だから、今日中に私達は、トリコ王国を離れなければならない。」
「その後は、どうするの?」
「お前たちと一緒にアルトフールを探すよ。」
「え!」
「ほら、ペポ族と年頃の女の子じゃ色々危険だろう、だから、私達がボディガードになってやるんだ。」
「ディッシュ、お前は誰かを守れるくらい、体力もなければ腕っぷしもないだろう。」
助手席に乗っていたマシアスが後ろを向いて呆れたように言った。
「ははは、そうですね。王様じゃないディレィッシュ兄さんはただのもやしっ子ですね。」
それにイスカリオッシュも同調して、笑顔になった。
「その代わり、天才的な頭を持っていたから、トリコ王国をあそこまで発展できたんです。あなたがいなければ、デンキジドウシャだってこの通りうるさいし、燃費も悪い。シートだってふかふかじゃない。」
つまり、ディレィッシュの頭はトリコ王国を技術面で大きく発展させた。ディレィッシュがいない世界では、テクノロジーを発展させる人間がいないが故に、デンキジドウシャもそこまで快適なものにはならず、同時にエネルギー対策というのもディレィッシュの時代ほど整っていない。
だから、エネルギー高炉はなくなり、その更地にクグレックとニタは眠っていたのだ。
静かになるとイスカリオッシュは寂しそうな表情になる。刻一刻と迫る兄弟との別れの時間が怖いのだろう。
「ねぇ、マシアスは、どう思っているの?自分の存在をなかったことにされて、嫌じゃないの?」
ニタがぽつりとマシアスに尋ねた。それはクグレックも気になっていたことだった。
「まぁ、寂しいな。だけど、俺の存在までで済むのならなにも問題はない。俺の存在がなくなるだけで、どん底の状態を迎えるトリコ王国が元に戻ったんだ。それに、王位はイスカリオッシュが継いでいる。なにか問題でもあるのか?」
きょとんとしながら聞き返すマシアス。
「いや、だって、住む場所とかなくなるんだよ。嫌じゃないの?」
「…別に、なんの気兼ねもなしに王宮暮らしから離れられるのは正直嬉しくもある。自由に生きるのが夢でもあったから。」
「私もだ!」
嬉しそうに同調するディレィッシュ。
「いや、兄貴は多分庶民の暮らしには文句垂れまくると思う。そうじゃなきゃ、あそこまで技術を発展させようとしない。生来面倒臭がりなんだ、」
「いや、そんなことはない。私だって、自由に暮らしたかった。」
その言葉を聞いたマシアスは一瞬はっとして口を噤んだ。確かに、ディレィッシュは王として生き続けて来た。そこに彼にとって本当に自由な時間など存在しなかったのかもしれない。
「…まぁ、自分で決めた道だし、自由に進めばいいじゃないか。」
マシアスが申し訳なさそうに言った。王の弟ではなく、ディレィッシュの弟として、マシアスは彼の幸せを望みたかった。これまでトリコ王国のために費やしてきたのだから、彼は本当の意味で自分のために時間を使うべきなのだ。今までの彼は小さなプライベートラボでのみ自由を許されていたが、もう、そうではないのだ。
「あぁ、私の人生、まだまだこれからだからな。機械いじりだって、その気になればいつだってできる。」
嬉しそうに語るディレィッシュ。
「あ。そうだ。」
マシアスが再び振り返って、後部座席に向かって声をかける。
「なんだ?ハーミッシュ。」
「…あぁ、それでいいんだ。ニタとクグレック、俺の名はハーミッシュだ。訳あって、マシアスという名を使っていたが、それはただの偽名だ。…もしよければ、俺のことはマシアスではなく、ハーミッシュと呼んでくれないか?名前だけが俺の最後の証だから。」
「ハーミッシュ…。」
ニタが呟く。が、ニタの眉間には皺が寄って行った。
「ハーミッシュも、ディレィッシュも長い。呼びづらい。」
不機嫌そうな表情で、ニタが言った。
マシアス、ことハーミッシュは、はははと笑いながら
「じゃぁ、俺のことはハッシュと呼べば良い。ディレィッシュも長いから、ディッシュでいいんじゃないか?」
と提案すると、ニタはそれを「分かった」と承諾した。
「じゃぁ、クク、この身寄りのない兄弟も一緒にアルトフールに連れて行ってあげようか。」
ニタが言った。
クグレックは「うん」と大きく頷いた。
奇妙な運命ではあるが、これも何かの縁なのだ。
彼らは当然の如く運命を受け入れる。生まれ故郷や兄弟、大切なものを一挙になくすことになった二人だったが、彼らはその困難を楽しんですらいるようだった。その様子をみたら、クグレックも二人と共に歩みたくなった。
依然としてアルトフールがどこにあるかは分からないままだが、この二人がいてくれれば心強い。特にハッシュは良識もあるし、これまでずっと二人のことを助けてくれた。ディレィッシュだって、非常に博識だ。きっといろいろなことを教えてくれるだろう。
還る場所がない4人は還る場所を探しに行く。
********
クグレックは暑さと眩しさで目を覚ました。あまりにも眩しいので目を開けることが出来ない。
頬には粒粒とした何かが当たって痛い。それよりもなにより暑い。
気持ちを奮い立たせて、クグレックは目を開ける。
そして、瞳に飛び込んできた情景にクグレックは一気に覚醒し、飛び起きた。
光あふれる眩しい褐色の風景。太陽が痛いほどに照り付ける砂の景色なのだ。
エネルギー高炉にいたはずなのに、エネルギー高炉の面影は全くなかった。建物すら存在しない、ただひたすら広大に続く砂漠の景色が広がっていたのだ。
クグレックは口の中に砂入った砂を吐き出した。
ディレィッシュに会ったことも、ニタやハーミッシュに再会したことも、夢だったのか分からない。
ところが、辺りを見回してみると、ふかふかの毛を持った白いぬいぐるみが倒れている。クグレックはニタの傍に駆け寄り、声をかけた。
「ニタ、ニタ、起きて、大変。」
そう言いながら、ニタの身体をゆすると、ニタは「ううん」とくぐもった声を出しながら目を覚ました。
「なに、クク…。あ。」
ニタも周りの様子に気が付くと、それはそれはコミカルに飛び起きた。
「エネルギー高炉は?爆発しちゃった?」
「でも、瓦礫も何も残ってないし、ディレィッシュもマシアスもいない。」
「こんな砂漠のど真ん中に取り残されるなんて…。ニタ達、干からびて死んじゃうよぅ。」
そのニタの言葉を聞いて、クグレックはぞっとした。
永久に閉じ込められていたかもしれない暗闇の空間から脱出できたかと思いきや、今度は太陽の光が燦々と降り注ぐ砂漠のど真ん中に残された。一難去ってまた一難。
二人で絶望に打ちひしがれていると、遠くの方からブオーンと低音が響いて来る。
音のする方に目を遣れば、デンキジドウシャが近付いて来るようだった。
「デンキジドウシャ?…にしてはうるさいし、形が変。」
デンキジドウシャはクグレックたちの元に止まった。
このデンキジドウシャは少し大きくてゴツゴツしている。いままで見て来たデンキジドウシャは流線型のスタイリッシュな外見をしていたが、目の前に停まったデンキジドウシャは箱型でごつい印象をうけた。しかもよく見ると、浮いておらず、タイヤが付いた四輪駆動型だった。
デンキジドウシャからは荷物を背負ったディレィッシュが降りて来た。
ニタとクグレックは表情を強張らせて、目の前のトリコ王を警戒する。
「ふふふ、すまない。大丈夫だ。何もしない。いや、もう、何も出来ない。」
ディレィッシュはにっこりと微笑んだ。
「二人には色々迷惑をかけてしまって悪かった。だけど、時間がないんだ。車に乗ってくれ。」
ニタとクグレックは顔を見合わせる。目の前のディレィッシュは本当に信頼に値する人物なのか信じ切れなかった。
二人が猜疑心に包まれていると、デンキジドウシャからまた別の誰かが降りて来た。マシアスだ。
「大丈夫だ。本物のディレィッシュだから、大丈夫だ。」
と、マシアスに言われて、ニタとクグレックはようやく安心することが出来たのだろう、素直にデンキジドウシャに乗り込んだ。
二人が乗り込んだのを確認して、ディレィッシュとマシアスもデンキジドウシャに乗り込んだ。
運転席にはイスカリオッシュがおり、バックミラー越しに二人に声をかけてきた。
「…二人とも、無事で何よりでした。では、出発しますね。」
助手席にマシアス、後部座席にはニタとククとディレィッシュを乗せ、デンキジドウシャは発進した。ブオオンというエンジン音と共にデンキジドウシャは進んで行く。耳障りではないが、少々気になる音だった。
「旧式のクルマか。」
ディレィッシュが言った。
「えぇ。そうなりますね。そういう世界なので仕方がないです。燃費も悪いし、エンジン音も騒々しい。まぁ、日没までには国境に辿り着くと思いますけど。」
イスカリオッシュが答えた。
「シートも堅いし、あまり長く乗り続けると疲れるな。」
「ふふふ、そうですね。」
イスカリオッシュは微笑みながら答える。
クグレックはイスカリオッシュと談笑するディレィッシュをじっと見つめた。魔のディレィッシュなのか、本物のディレィッシュなのか分からなかったからだ。
そんなクグレックの不安な視線にディレィッシュは気付き、クグレックに向かってにこりと微笑んだ。クグレックは思わず
「本物?」
と呟いた。
「あぁ。おかげさまで、取り戻せた。トリコ王国も、“私”も。」
「…。」
クグレックは、まるで夢でも見ているかのような心地になってしまい、言葉を発することが出来なかった。ディレィッシュがこの現実の世界に存在するのだ。闇に取り込まれて、もう二度と会えないのではないかと怖くなっていたが、そうではなかった。再び会うことが出来た。
「でも、申し訳ないな。トリコ王国に永住の件は亡くなってしまった。」
「…」
クグレックはもともとトリコ王国に長居はするつもりはなかったので、別に謝らなくても良いのに、と心の中で思った。
だが、ディレィッシュがあえてそんなことを言うのは、結局戦争は止められず、どうにもならないからこの夢の様なトリコ王国では過ごせないということなのか。
「…私は、生きて戻って来ることが出来たのだが、…だが、この世界にはいない存在なのだ。」
「どういうこと?」
ニタとクグレックは首を傾げた。
クグレックは暑さと眩しさで目を覚ました。あまりにも眩しいので目を開けることが出来ない。
頬には粒粒とした何かが当たって痛い。それよりもなにより暑い。
気持ちを奮い立たせて、クグレックは目を開ける。
そして、瞳に飛び込んできた情景にクグレックは一気に覚醒し、飛び起きた。
光あふれる眩しい褐色の風景。太陽が痛いほどに照り付ける砂の景色なのだ。
エネルギー高炉にいたはずなのに、エネルギー高炉の面影は全くなかった。建物すら存在しない、ただひたすら広大に続く砂漠の景色が広がっていたのだ。
クグレックは口の中に砂入った砂を吐き出した。
ディレィッシュに会ったことも、ニタやハーミッシュに再会したことも、夢だったのか分からない。
ところが、辺りを見回してみると、ふかふかの毛を持った白いぬいぐるみが倒れている。クグレックはニタの傍に駆け寄り、声をかけた。
「ニタ、ニタ、起きて、大変。」
そう言いながら、ニタの身体をゆすると、ニタは「ううん」とくぐもった声を出しながら目を覚ました。
「なに、クク…。あ。」
ニタも周りの様子に気が付くと、それはそれはコミカルに飛び起きた。
「エネルギー高炉は?爆発しちゃった?」
「でも、瓦礫も何も残ってないし、ディレィッシュもマシアスもいない。」
「こんな砂漠のど真ん中に取り残されるなんて…。ニタ達、干からびて死んじゃうよぅ。」
そのニタの言葉を聞いて、クグレックはぞっとした。
永久に閉じ込められていたかもしれない暗闇の空間から脱出できたかと思いきや、今度は太陽の光が燦々と降り注ぐ砂漠のど真ん中に残された。一難去ってまた一難。
二人で絶望に打ちひしがれていると、遠くの方からブオーンと低音が響いて来る。
音のする方に目を遣れば、デンキジドウシャが近付いて来るようだった。
「デンキジドウシャ?…にしてはうるさいし、形が変。」
デンキジドウシャはクグレックたちの元に止まった。
このデンキジドウシャは少し大きくてゴツゴツしている。いままで見て来たデンキジドウシャは流線型のスタイリッシュな外見をしていたが、目の前に停まったデンキジドウシャは箱型でごつい印象をうけた。しかもよく見ると、浮いておらず、タイヤが付いた四輪駆動型だった。
デンキジドウシャからは荷物を背負ったディレィッシュが降りて来た。
ニタとクグレックは表情を強張らせて、目の前のトリコ王を警戒する。
「ふふふ、すまない。大丈夫だ。何もしない。いや、もう、何も出来ない。」
ディレィッシュはにっこりと微笑んだ。
「二人には色々迷惑をかけてしまって悪かった。だけど、時間がないんだ。車に乗ってくれ。」
ニタとクグレックは顔を見合わせる。目の前のディレィッシュは本当に信頼に値する人物なのか信じ切れなかった。
二人が猜疑心に包まれていると、デンキジドウシャからまた別の誰かが降りて来た。マシアスだ。
「大丈夫だ。本物のディレィッシュだから、大丈夫だ。」
と、マシアスに言われて、ニタとクグレックはようやく安心することが出来たのだろう、素直にデンキジドウシャに乗り込んだ。
二人が乗り込んだのを確認して、ディレィッシュとマシアスもデンキジドウシャに乗り込んだ。
運転席にはイスカリオッシュがおり、バックミラー越しに二人に声をかけてきた。
「…二人とも、無事で何よりでした。では、出発しますね。」
助手席にマシアス、後部座席にはニタとククとディレィッシュを乗せ、デンキジドウシャは発進した。ブオオンというエンジン音と共にデンキジドウシャは進んで行く。耳障りではないが、少々気になる音だった。
「旧式のクルマか。」
ディレィッシュが言った。
「えぇ。そうなりますね。そういう世界なので仕方がないです。燃費も悪いし、エンジン音も騒々しい。まぁ、日没までには国境に辿り着くと思いますけど。」
イスカリオッシュが答えた。
「シートも堅いし、あまり長く乗り続けると疲れるな。」
「ふふふ、そうですね。」
イスカリオッシュは微笑みながら答える。
クグレックはイスカリオッシュと談笑するディレィッシュをじっと見つめた。魔のディレィッシュなのか、本物のディレィッシュなのか分からなかったからだ。
そんなクグレックの不安な視線にディレィッシュは気付き、クグレックに向かってにこりと微笑んだ。クグレックは思わず
「本物?」
と呟いた。
「あぁ。おかげさまで、取り戻せた。トリコ王国も、“私”も。」
「…。」
クグレックは、まるで夢でも見ているかのような心地になってしまい、言葉を発することが出来なかった。ディレィッシュがこの現実の世界に存在するのだ。闇に取り込まれて、もう二度と会えないのではないかと怖くなっていたが、そうではなかった。再び会うことが出来た。
「でも、申し訳ないな。トリコ王国に永住の件は亡くなってしまった。」
「…」
クグレックはもともとトリコ王国に長居はするつもりはなかったので、別に謝らなくても良いのに、と心の中で思った。
だが、ディレィッシュがあえてそんなことを言うのは、結局戦争は止められず、どうにもならないからこの夢の様なトリコ王国では過ごせないということなのか。
「…私は、生きて戻って来ることが出来たのだが、…だが、この世界にはいない存在なのだ。」
「どういうこと?」
ニタとクグレックは首を傾げた。
********
――砂上楼君。忘れちゃいけない、母の記憶。母は大いなる源。あなたの起源を忘れないで。
闇に飲み込まれたディレィッシュは一瞬意識を手放していたが右手の違和感に気付き、再び意識を取り戻した。聞いたことのない女性の声が聞こえた様な気がしたが、良く分からなかった。
最早そこには、光がなく、自身の身体すら視認することが出来なかった。
『罪』に呑まれて、彼は死ぬことも出来ずに未来永劫この閉ざされた空間で生き続けなければならないのだ。この状態をはたして生きていると称して良いのか疑問が生じるところではあるが。
彼は、腕に違和感を感じていたので、腕の辺りをさすった。すると、何かが巻き付いている。手の触覚だけを頼りに、腕に巻き付く何かを感じ取ると、それはすべすべとした石がついたネックレスであろうことが分かった。
なんだか優しい温かみのある不思議な石だった。
イスカリオッシュを産んですぐに亡くなった先王妃のような優しい温かみだ。
ディレィッシュはあまりの懐かしさに泣きたい気持ちに襲われた。久しぶりの感覚だった。
絶望的な暗闇の世界で、彼は微笑み、そして、涙を流した。
――これから生まれてくる弟のこと、何があってもしっかりと守るのですよ。あなたはトリコ王の後継者としてその名に恥じることなく、常に誇りを持って、トリコ王国を守っていくのです。私の大切な可愛いディレィッシュ。
幼い時の記憶に残る母の姿は、厳しい時もあるが、いつも優しく温かかった。イスカリオッシュを産んでからすぐに病気で亡くなってしまったが、大好きだった。彼は母が残したこの言葉を胸に今日まで生きてきたが、魔に心まで毒されていて薄れていたのだろう。彼は、今、ようやく自身の生きる意味を思いだした。
愛する母のため、彼は今日まで心身を尽くしてきたのだ。
この暗闇の中で、ディレィッシュは意思を取り戻した。
そして、死ぬことを決意した。
護身用のナイフを懐から取り出し、鞘から刃を抜き取ると、大声で叫んだ。
「聞こえるか、もう一人の私。私は死のうと思う。だから、最期にお前と会話したい。」
ディレィッシュの叫びは暗闇に吸い込まれていった。魔からの反応はなかった。
ディレィッシュは力なくため息を吐いて、ナイフを逆手に持ち、心臓をめがけて勢いよく自身の胸に突き刺した。
「ぐっ」
痛みと恐怖により思わず零れるうめき声。呼吸が浅くなり、一刻も早くナイフを外してしまい気持ちに駆られるが、ディレィッシュは落ち着いて深く息を吸い、ゆっくりと吐き出し、気持ちを落ち着けた。
再びナイフを握る手に力を込め、更に胸を割こうとナイフを動かそうとしたが、そこで動きが止まった。どういうわけかこれ以上動けないのだ。
その時、ディレィッシュの目前にディレィッシュが現れた。いや、ディレィッシュの姿をした何かと呼んでいいだろう。それは、綺麗な白のトリコ衣装を身に付けているが、胸のあたりを抑え、苦痛に顔を歪ませている。
「気が狂ったか。やめろ。」
ディレィッシュに似た何かが言った。
彼の出現に、ディレィッシュはにやりとほくそ笑んだ。呼吸が荒くなり、脂汗が滴るが、それでも彼は余裕そうな雰囲気だ。
「もう一人の私。会いたかった。約束、していたが、やっぱり私は私の身体を明け渡したくはないんだ。私の身体から私がいなくなり、お前の様なものに譲るのはやはり嫌なんだ。私はトリコ王国の王なのだ。トリコ王国の繁栄と平穏を望む最高の存在だ。それを相反するものに明け渡すことは出来ない。お前に明け渡すくらいならば、私は、ディレィッシュは只今を持って生涯に幕を降ろそう。戦争が始まり、世界の秩序は乱された。困難な局面にあるが、私の弟たちであれば、世界を闇に陥れることはないだろう。状況は良くならないかもしれない。しかし、私ではない、トリコ王国の誇りを持たないディレィッシュが生きているよりはマシなんだ。だから、私は、死ぬ。」
と、ディレィッシュが一気に言うと、咳き込みながら吐血した。
ディレィッシュは気にも留めない様子で、口周りに着いた血を腕で拭い、ナイフを再び握りしめる。そして、勢いよく自身の胸から、ナイフを抜いた。
切り口から血が噴き出るが、ディレィッシュは気にせず、ナイフを目の前のディレィッシュに似た何か――彼自身の魔に突き刺した。先程じぶんで刺した刺した場所は、心臓に直結していなかった。少し上にずらすと、動かなくなったのは、目の前の魔が急所であるから、止めたのであろう。
彼の魔が反応する前にナイフを一突きする。
一瞬、彼の魔が不思議な力でもう一度ディレィッシュの動きを止めようと試みたようだったが、ディレィッシュは気持ちでそれを払いのけ、魔の胸にナイフを突き刺した。
「ぐっ」
ディレィッシュはそのまま魔を押し倒す。というようりも、自身も力が抜けて、魔にもたれかかるようにして一緒に倒れた。
魔もごふっと咳をして、血を吐き出す。恐怖に引きつった表情を浮かべて。
「…なぜ、お前の行動が俺に直接干渉されるんだ?俺の時は全然届かなかったのに…」
「…それは、私が、トリコ王だからだよ…」
「…俺、死ぬのか?」
「…さぁ。私が、死ぬのであれば、お前も道連れにしたいという一縷の希望にかけて、死んで欲しいがな。…ところで、外の世界は、どうだった?」
「希望に、満ち溢れていた。破滅への道を、確実に進んでいる。」
「今、希望と聞こえたが、絶望の間違いではないか?」
「俺にとっての希望も、お前にとっての希望も、同じくらいに溢れている。」
「…深いことを言うね。」
「…」
「…お前は、私だ。人は、誰しも闇を抱えるというのに、私はそれを無視した。悪かったな。」
「…」
「…」
「…俺は、お前のこと嫌いじゃなかったよ。これほどまでに鉄壁の心を持った人間、あったことがなかった。…でも、俺は魔だ。実体が、欲しい。」
「…」
「約束を破ったことは許されない。俺、が許しても、世の中の理が許さない。だから、最期のチャンスをお前にくれてやる。そして、俺は、もうこんなところとは、おさらばする。」
「…」
「最期の力を、貸してやる。ただ、悪魔との契約に、犠牲はつきものだ。その犠牲で十分だから、もう、俺はお前に関わらない。また、別の器を、探そう。」
「…」
「…」
「…」
ディレィッシュと魔の意識は遠のいていく。暗闇に同じ顔をした二人の男性が血溜まりの中取れている。やがて、その男性の片方が消え、暗闇に存在する男性は一人となった。
――砂上楼君。忘れちゃいけない、母の記憶。母は大いなる源。あなたの起源を忘れないで。
闇に飲み込まれたディレィッシュは一瞬意識を手放していたが右手の違和感に気付き、再び意識を取り戻した。聞いたことのない女性の声が聞こえた様な気がしたが、良く分からなかった。
最早そこには、光がなく、自身の身体すら視認することが出来なかった。
『罪』に呑まれて、彼は死ぬことも出来ずに未来永劫この閉ざされた空間で生き続けなければならないのだ。この状態をはたして生きていると称して良いのか疑問が生じるところではあるが。
彼は、腕に違和感を感じていたので、腕の辺りをさすった。すると、何かが巻き付いている。手の触覚だけを頼りに、腕に巻き付く何かを感じ取ると、それはすべすべとした石がついたネックレスであろうことが分かった。
なんだか優しい温かみのある不思議な石だった。
イスカリオッシュを産んですぐに亡くなった先王妃のような優しい温かみだ。
ディレィッシュはあまりの懐かしさに泣きたい気持ちに襲われた。久しぶりの感覚だった。
絶望的な暗闇の世界で、彼は微笑み、そして、涙を流した。
――これから生まれてくる弟のこと、何があってもしっかりと守るのですよ。あなたはトリコ王の後継者としてその名に恥じることなく、常に誇りを持って、トリコ王国を守っていくのです。私の大切な可愛いディレィッシュ。
幼い時の記憶に残る母の姿は、厳しい時もあるが、いつも優しく温かかった。イスカリオッシュを産んでからすぐに病気で亡くなってしまったが、大好きだった。彼は母が残したこの言葉を胸に今日まで生きてきたが、魔に心まで毒されていて薄れていたのだろう。彼は、今、ようやく自身の生きる意味を思いだした。
愛する母のため、彼は今日まで心身を尽くしてきたのだ。
この暗闇の中で、ディレィッシュは意思を取り戻した。
そして、死ぬことを決意した。
護身用のナイフを懐から取り出し、鞘から刃を抜き取ると、大声で叫んだ。
「聞こえるか、もう一人の私。私は死のうと思う。だから、最期にお前と会話したい。」
ディレィッシュの叫びは暗闇に吸い込まれていった。魔からの反応はなかった。
ディレィッシュは力なくため息を吐いて、ナイフを逆手に持ち、心臓をめがけて勢いよく自身の胸に突き刺した。
「ぐっ」
痛みと恐怖により思わず零れるうめき声。呼吸が浅くなり、一刻も早くナイフを外してしまい気持ちに駆られるが、ディレィッシュは落ち着いて深く息を吸い、ゆっくりと吐き出し、気持ちを落ち着けた。
再びナイフを握る手に力を込め、更に胸を割こうとナイフを動かそうとしたが、そこで動きが止まった。どういうわけかこれ以上動けないのだ。
その時、ディレィッシュの目前にディレィッシュが現れた。いや、ディレィッシュの姿をした何かと呼んでいいだろう。それは、綺麗な白のトリコ衣装を身に付けているが、胸のあたりを抑え、苦痛に顔を歪ませている。
「気が狂ったか。やめろ。」
ディレィッシュに似た何かが言った。
彼の出現に、ディレィッシュはにやりとほくそ笑んだ。呼吸が荒くなり、脂汗が滴るが、それでも彼は余裕そうな雰囲気だ。
「もう一人の私。会いたかった。約束、していたが、やっぱり私は私の身体を明け渡したくはないんだ。私の身体から私がいなくなり、お前の様なものに譲るのはやはり嫌なんだ。私はトリコ王国の王なのだ。トリコ王国の繁栄と平穏を望む最高の存在だ。それを相反するものに明け渡すことは出来ない。お前に明け渡すくらいならば、私は、ディレィッシュは只今を持って生涯に幕を降ろそう。戦争が始まり、世界の秩序は乱された。困難な局面にあるが、私の弟たちであれば、世界を闇に陥れることはないだろう。状況は良くならないかもしれない。しかし、私ではない、トリコ王国の誇りを持たないディレィッシュが生きているよりはマシなんだ。だから、私は、死ぬ。」
と、ディレィッシュが一気に言うと、咳き込みながら吐血した。
ディレィッシュは気にも留めない様子で、口周りに着いた血を腕で拭い、ナイフを再び握りしめる。そして、勢いよく自身の胸から、ナイフを抜いた。
切り口から血が噴き出るが、ディレィッシュは気にせず、ナイフを目の前のディレィッシュに似た何か――彼自身の魔に突き刺した。先程じぶんで刺した刺した場所は、心臓に直結していなかった。少し上にずらすと、動かなくなったのは、目の前の魔が急所であるから、止めたのであろう。
彼の魔が反応する前にナイフを一突きする。
一瞬、彼の魔が不思議な力でもう一度ディレィッシュの動きを止めようと試みたようだったが、ディレィッシュは気持ちでそれを払いのけ、魔の胸にナイフを突き刺した。
「ぐっ」
ディレィッシュはそのまま魔を押し倒す。というようりも、自身も力が抜けて、魔にもたれかかるようにして一緒に倒れた。
魔もごふっと咳をして、血を吐き出す。恐怖に引きつった表情を浮かべて。
「…なぜ、お前の行動が俺に直接干渉されるんだ?俺の時は全然届かなかったのに…」
「…それは、私が、トリコ王だからだよ…」
「…俺、死ぬのか?」
「…さぁ。私が、死ぬのであれば、お前も道連れにしたいという一縷の希望にかけて、死んで欲しいがな。…ところで、外の世界は、どうだった?」
「希望に、満ち溢れていた。破滅への道を、確実に進んでいる。」
「今、希望と聞こえたが、絶望の間違いではないか?」
「俺にとっての希望も、お前にとっての希望も、同じくらいに溢れている。」
「…深いことを言うね。」
「…」
「…お前は、私だ。人は、誰しも闇を抱えるというのに、私はそれを無視した。悪かったな。」
「…」
「…」
「…俺は、お前のこと嫌いじゃなかったよ。これほどまでに鉄壁の心を持った人間、あったことがなかった。…でも、俺は魔だ。実体が、欲しい。」
「…」
「約束を破ったことは許されない。俺、が許しても、世の中の理が許さない。だから、最期のチャンスをお前にくれてやる。そして、俺は、もうこんなところとは、おさらばする。」
「…」
「最期の力を、貸してやる。ただ、悪魔との契約に、犠牲はつきものだ。その犠牲で十分だから、もう、俺はお前に関わらない。また、別の器を、探そう。」
「…」
「…」
「…」
ディレィッシュと魔の意識は遠のいていく。暗闇に同じ顔をした二人の男性が血溜まりの中取れている。やがて、その男性の片方が消え、暗闇に存在する男性は一人となった。
数分後。クグレックも状態が落ち着いたので、3人はこれからの作戦を練り始めた。
「さて、ククも落ち着いたことだし、今後の作戦を決めていこう。まずは、この状況を説明しよう。」
ニタが場を取り仕切り、クグレックに話をするように促す。
「私は、クライドさんにエネルギー高炉の最深部に連れられて、そこにいたディレィッシュに出会った。でも、彼はディレィッシュであって、ディレィッシュではない。ディレィッシュの魔だって言ってた。魔は更に力を得るために私の血を飲み、心臓を喰らうと言っていた。それから、私は怖くて、魔力を暴走させちゃって、気がついたらこの暗闇の世界にいた。ついさっきまでディレィッシュ――本物のディレィッシュがいたんだけど、闇の中に消えていった。そしたら、私の周りに黒い手が現れて心臓を掴んで取り出そうとしたの。多分、取り出される寸前だったんだと思う。ただ、ちょうどその時にニタ達が入って来て、黒い手は消えた。」
クグレックの話を聞いたニタとマシアスは、アイコンタクトを取ると示しを合わせたように黙って頷いた。
「ニタ達はどうだったの?マシアスがいるってことは、イスカリオッシュさんにも会えたってことだろうけど…。」
「うん。無事にイスカリオッシュにも会えたし、なんとかしてマシア、いやハーミッシュを連れ出すことも出来た。イスカリオッシュがいたから、トリコ王国で一番速いデンキジドウシャに乗って来れたから、凄く早く着いたよ。クグレックがニタの幻をつくりだして、クライドをだましてくれたおかげだよ。本当に良く頑張ったね。」
ニタに褒められてクグレックはほんのわずかに表情を緩ませた。
トリコ城を出る少し前からクグレックの傍にいたニタは彼女が作った幻だった。クライドに部屋の外に連れ出され、4D2コムを落とした瞬間にニタはクグレックの元を離れ、イスカリオッシュを探しに出たのだ。それからニタとクグレックは別々で行動していた。
クグレックはクライドにばれないようにニタの幻を作り続け、ニタは単身イスカリオッシュを探し応援を求め、そして、マシアスを助けた。ニタとクグレックだけではどうしてもディレィッシュに対抗することが出来ない。しかし、ディレィッシュの弟であるハーミッシュとイスカリオッシュならば、ディレィッシュに対抗することが出来るのだ。ニタとクグレックはプライベートラボから戻った数日の間に作戦を立てていたのだ。情報を掌握するディレィッシュに気付かれることのないように筆談で作戦を立て、あくまでも極秘に。これが『ニタがやりたかったこと』。
「最後の最後にニタがクライドに斬られちゃったから、ぐったりするニタをイメージして作り続けたのは悲しくて辛かった。離れたところに、しかも私から見えないような場所に幻を維持し続けるのは、凄く疲れたよ。」
「うんうん、よく頑張ったよ。」
「でも、イスカリオッシュさんは…?」
「イスカリオッシュはクライドと一緒にいる。ディレィッシュもなかなか腹に一物を含んだ男だと思ってたけど、イスカリオッシュもなかなかのもんだ。」
「ディレィッシュは相手を包括する広さを持っているが、イスカリオッシュは相手の懐にうまく入り込むことが出来る。末っ子であるが故の愛嬌を上手く昇華させたのがあいつだ。」
ハーミッシュが言った。おそらく彼の交渉スタイルはピアノ商会などと交渉を重ねて来たことから分かるように、シビアに駆け引きを行っていくスタイルだ。相手と対等な立場で対話を重ねる。
「イスカリオッシュがクライドを抑えてくれたおかげで、ニタ達はエネルギー高炉最深部に行こうとしたら、扉が開かなかった。でも、中ではディレィッシュの独り言と高らかに笑う声が聞こえた。何か嫌な予感がしたから、ニタとハッシュで扉を開けたんだ。そしたら、ここに辿り着いた。」
「ここは、一体どこなんだ?」
ハーミッシュの問いに、クグレックは困った様子で頭を横に振る。
「分からない。ただ、…もしかすると、ここはディレィッシュの心の世界なのかも。ディレィッシュの魔はディレィッシュの中にいたって言う。ディレィッシュは魔に乗っ取られたから、呪いでこの世界に閉じ込められたらしい。だから、私は出ることは出来ても、ディレィッシュは出ることは出来ないんだって。」
「なんだそれ。」
ニタが呆れたように言った。
3人は暗闇の世界で円座になって、脱出方法をひねり出す。
「多分、ニタとマシアスは何も出来ない。不思議空間に対する不思議能力はないから。多分、ククしかこの不思議空間を脱する力を持っている。」
「ただ、分かることは、クグレックは気がついたらこの空間にいた。俺達もそうだ。ただ、俺達はドアを蹴破ったらこの空間に突入してしまった。この空間を壊すことが出来たら、元のエネルギー高炉最深部に戻ることが出来るんじゃないか?」
「空間を壊す?」
空間を壊す、と言われて、ニタは足元を徐に殴りつけた。が、確かに、足は地に着いている感覚はあるのだが、そこに床という概念は存在しない。ニタの拳はまるで空を裂くように空振るだけだった。
「ニタの力じゃ無理だ。」
への字口になってしょぼくれるニタ。クグレックはちらりとマシアスに目くばせを行う。マシアスはクグレックの思惑を肯定するように頷いた。
「…でも、私、空間を破壊する魔法、知らないよ…。」
「ピアノ商会で出したバチバチで壊れないかな。あれ、ピアノ商会のアジトをぶっ壊したし…」
ニタが言った。バチバチ、ディレィッシュの魔曰く、クグレックから溢れ出る制御できない魔力の暴走。
「あれは、魔法じゃないんだけどな。」
とクグレックは応えてみるも、ディレィッシュの魔が魔力の暴走だと言っていたことから、杖を媒介にして魔力を放出させれば良いのではないかとクグレックは考えた。ディレィッシュの魔法実験のおかげで魔法における魔力放出のコントロールを沢山やらされたので、少しだけ上手になったと密かに思っていたところだった。
クグレックは自身の魔力を杖から放出する様子をイメージし、集中した。
すると、杖からパチパチという静電気の音が放たれた。セーターを脱いだ時の様な可愛らしい音だ。クグレックは更に集中し、魔力を込めてみるが、日常で見られる静電気以上の放出は出来なかった。
「…もっとバチバチって言ってたよ。こんな手品みたいな感じじゃなかった。」
ピアノ商会で唯一クグレックの魔力暴走を目の当たりにしていたニタが言った。クグレックももっと派手に行いたいのに出来ないもどかしさに歯痒い思いをしていた。
その時、マシアスははっとある出来事を思い出した。
彼はクグレックの魔力暴走を一撃だけ喰らった時のことを思い出したのだ。
ピアノ商会で、彼は、ニタを助けに行こうとしたクグレックを力づくで止めるためにクグレックに手をかけようとした。すると、マシアスの身体に強烈な雷撃が身体全体を駆け巡り、そのショックで気を失ったことを思い出した。あの時、ニタ救出を阻もうとするマシアスのことを、クグレックは必死に拒絶していた。更にピアノ商会のボスの部屋で発生した魔力暴走も、おそらくボスに対する強い拒絶が由来となっていたのだろう。
「クグレック、『拒絶』するんだ。多分、魔力暴走はすべて何も寄せ付けようとしない『拒絶』から来ている。この空間を『拒絶』するんだ。」
「空間を拒絶?」
マシアスの言葉を復唱しながら、クグレックは拒絶をイメージしてみた。クグレックのエネルギーが一番動くのは、この拒絶の瞬間なのかもしれない。彼女は祖母のいない世界を拒絶し、マシアスもニタも守れない世界も拒絶した。さらに、自身の力が破滅への引金をひいてしまう世界に対しても拒絶した。強力な魔力暴走は世界を壊すことが出来ない。ある一定の大きさの水槽に電流を流し、水槽を壊すのではない。果てしない大海に電流を流し、世界を破壊するようなものだ。だから、彼女は毎回魔力をコントロールできなくなり、リミッターを外した最大出力で魔力を暴発させる。
今回はこの暗闇空間という水槽を破壊すればよい。
「なんとなくわかったかも。」
クグレックは杖に力をこめ、イメージをした。自身の魔力を制御できない時に発生するあの感覚を。拒絶することで暴発してしまう、魔力のねん出を。クグレックはディレィッシュの魔が作りだしたこの空間を強く拒絶し、魔力を爆列させる、という自身の魔力の流れを想像しながら、杖に魔力を集中させる。
杖からは光を伴った静電気がパチパチと発生される。次第に電光は大きくなる。
クグレックは、ディレィッシュの姿をした魔のことを思い出し、魔が持つ波長に魔力の彼女の周波数を合わせた。これで魔力は暗闇の空間に接触できる。
――早く、こんなところから脱出しなければ。
クグレックは杖に更に多くの魔力を集中させた。
すると杖からは雷のようなものがバチバチと大きな音を立てて四方に発散された。暗闇の空間は、まるでガラスが割れるかのように、バリバリと割れていった。ニタが蹴飛ばして破壊して突入してきた時の様に破壊されたのだ。空間の境目からは緑の警報灯がチカチカと点滅するエネルギー高炉最深部の景色が覗き、けたたましい警報音も漏れてくる。
全て粉々に砕け散ると、そこは既にエネルギー高炉最深部であり、目の前にはトリコ王がいた。
だが、様子がおかしい。
胸から血を流して膝をついている。フラフラと壁にもたれかかると、クグレックたちを睨み付け、そのままふっと意識を飛ばし、がくりと崩れ落ちた。
同時にクグレックも意識を失い、足元から崩れるようにして倒れた。が、すぐそばにいたマシアスがクグレックを抱き抱えた。クグレックは一気に魔力を放出してしまったために、魔力疲弊を起こし意識を失ってしまったのだ。
クグレックがトリコ王国に来てしまったせいで、戦争が起き、沢山の人の命が奪われる。
彼女の使命はニタと共にアルトフールに辿り着くことだが、無関係の人を不幸にしてまで達成したい目標ではない。
あまりの責任の重さに、彼女の双眸から、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。
「クグレック…。」
クグレックの涙に動揺を見せるディレィッシュ。彼は優しいので、泣いている女の子を見捨てることは出来ない、が、クグレックの望みはディレィッシュが叶えてあげることは出来ない故に、たじろぐことしかできなかった。
やがて、彼の表情は何かを悟ったのか暗くなった。
すると、辺りの暗闇はゆっくりとディレィッシュを包んでいく。
それに気付いたクグレックは慌ててディレィッシュに声をかけた。
「ディレィッシュ、どうしたの、体が、なんかおかしいよ。」
暗闇から引きずり出そうと、クグレックは必死になってディレィッシュの腕を引っ張るが、ディレィッシュはびくともしなかった。悲しそうな表情で、首を横に振る。
「…私など、結局はただの人だったのだ。それがどうして自身の魔に打ち勝てようなどと思ったのか。先代を殺して、国を良い方へ導こうとしたのか。あぁ、反吐が出る。これは驕り高ぶった私への当然の報いだったのだ。」
「違う。違うよ。ディレィッシュなら、何でもできるはず。魔女の私よりも魔法使いみたいなディレィッシュ!そんな悲しいこと言わないで。」
クグレックは必死だった。彼女の本能が今ディレィッシュを見捨ててはならないことを察しているのだ。
クグレックは無我夢中で身に付けていた黒瑪瑙ののネックレスを外して、ディレィッシュの腕に巻き付けた。祖母から貰った魔除けのお守り。これがあればディレィッシュから闇を退けることが出来かもしれない。
「諦めないで…。私は、まだ何とかなると思う。違う。何とかしなくちゃいけない。」
クグレックは一生懸命ディレィッシュを包み込もうとする暗闇を手で払う。しかし、一向にその闇が消える気配がないのでクグレックは焦った。ふとディレィッシュを見てみれば、目を閉じて襲い来る闇を受け入れているように見える。クグレックは頼る当てがなかった絶望感に打ちひしがれそうになった。
やがて、クグレックの努力も空しく、ディレィッシュは闇に包まれて消えてしまった。
クグレックはがくりと膝を床に付け、呆然と虚空を見つめた。
結局クグレックも何も出来ないのだ。
国を救うことも、一人の人間を救うことも、何も出来ないのだ。
クグレックは一生この空間に閉じ込められて、光を見ることなく死んでいくのだろう。
だが、それはそれでよかった。この空間から出れないことはきっと『罰』なのだから。
闇はゆっくりとクグレックの身体も侵食し始めた。
暗闇から真っ黒な複数の手がぬっと出現した。その手はクグレックをゆっくりと包み込む。
決して心地良い物ではなかったが、クグレックはそれを『罰』だと思い込み、静かに受け入れる。
黒い手はじわじわとクグレックの左胸へ接近する。服の上からクグレックの体内へ侵入すると、左胸を中心にクグレックの体が黒に染まっていった。肺も血管も骨もクグレックを構成する器官が闇に浸食される、冷たくも温かくもない気味が悪い感覚に襲われ、クグレックは恐怖で呼吸を荒くさせた。
黒い手がクグレックの心臓を掴んだのだ。
心臓は黒い手によって引っ張られる。痛みは感じないが、取り出される、という感覚だけは間違いない。いつか体内から取り出されてしまうという恐怖感がクグレックを襲った。
と、その時だった。
「やめろー!変態キング!」
暗闇空間を蹴り壊して、ニタが現れた。一瞬、暗闇空間に警報音と緑色の光が届いたが、すぐにニタに破壊された箇所は暗闇に包まれ再び静寂と暗闇が戻って来た。
突然の出来事に、暗闇から発生し、クグレックの心臓を掴んでいた黒い手は一瞬漏れこんだ光に掻き消えてしまった。
「ニタ…!」
クグレックはニタの姿をみて、闇に堕ちかけていた精神を取り戻した。
傷一つないニタ。さらにその傍にいる人物を目にして、更に安心した。ニタの隣にいる体格の良い金髪の男性。冷たくも優しい空の様な水色の瞳をしたマシアスことトリコ王国第1皇子ハーミッシュがいたのだ。
「クグレック…。」
優しい表情を見せるマシアス。マシアスの手にはクグレックの樫の杖が握られている。隣でニタはブイサインをしてにっこり笑顔だ。
暗闇の世界であることに変わりはなかったが、二人の存在はクグレックの心を明るくさせた。
それと同時にクグレックの頬を一筋の涙が伝った。ニタに再会して、本当に安心したのだ。
「全く、ククはニタがいないと、すぐ泣いちゃうんだから。」
そう言いながら、ニタはククに近付くと、その体をぎゅっと抱きしめた。
「だって、ディレィッシュは戦争を止めることが出来ないって言うから。もうここから出ることは出来ないって言うから。もうどうにもならないんだなって思って、でも、ニタ達が来てくれた。ニタ達が…」
クグレックは小さなニタの身体に顔を埋めて泣き喚くので、最後の方は人語を発してはいなかった。
ニタはやれやれというような表情を浮かべて、泣き喚くクグレックの背中をポンポンと叩いた。
「うんうん、頑張ったよ、クク。なんか変なところにいるけど、意識をちゃんと保ってるし、頑張った。本当に、ここまで『一人』でよく頑張った。」
と、ニタが優しい言葉を掛けると、クグレックはより一層激しく泣き喚くので、ニタは困った表情でハーミッシュに視線を送り、クグレックが落ち着くのを待つことにした。
彼女の使命はニタと共にアルトフールに辿り着くことだが、無関係の人を不幸にしてまで達成したい目標ではない。
あまりの責任の重さに、彼女の双眸から、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。
「クグレック…。」
クグレックの涙に動揺を見せるディレィッシュ。彼は優しいので、泣いている女の子を見捨てることは出来ない、が、クグレックの望みはディレィッシュが叶えてあげることは出来ない故に、たじろぐことしかできなかった。
やがて、彼の表情は何かを悟ったのか暗くなった。
すると、辺りの暗闇はゆっくりとディレィッシュを包んでいく。
それに気付いたクグレックは慌ててディレィッシュに声をかけた。
「ディレィッシュ、どうしたの、体が、なんかおかしいよ。」
暗闇から引きずり出そうと、クグレックは必死になってディレィッシュの腕を引っ張るが、ディレィッシュはびくともしなかった。悲しそうな表情で、首を横に振る。
「…私など、結局はただの人だったのだ。それがどうして自身の魔に打ち勝てようなどと思ったのか。先代を殺して、国を良い方へ導こうとしたのか。あぁ、反吐が出る。これは驕り高ぶった私への当然の報いだったのだ。」
「違う。違うよ。ディレィッシュなら、何でもできるはず。魔女の私よりも魔法使いみたいなディレィッシュ!そんな悲しいこと言わないで。」
クグレックは必死だった。彼女の本能が今ディレィッシュを見捨ててはならないことを察しているのだ。
クグレックは無我夢中で身に付けていた黒瑪瑙ののネックレスを外して、ディレィッシュの腕に巻き付けた。祖母から貰った魔除けのお守り。これがあればディレィッシュから闇を退けることが出来かもしれない。
「諦めないで…。私は、まだ何とかなると思う。違う。何とかしなくちゃいけない。」
クグレックは一生懸命ディレィッシュを包み込もうとする暗闇を手で払う。しかし、一向にその闇が消える気配がないのでクグレックは焦った。ふとディレィッシュを見てみれば、目を閉じて襲い来る闇を受け入れているように見える。クグレックは頼る当てがなかった絶望感に打ちひしがれそうになった。
やがて、クグレックの努力も空しく、ディレィッシュは闇に包まれて消えてしまった。
クグレックはがくりと膝を床に付け、呆然と虚空を見つめた。
結局クグレックも何も出来ないのだ。
国を救うことも、一人の人間を救うことも、何も出来ないのだ。
クグレックは一生この空間に閉じ込められて、光を見ることなく死んでいくのだろう。
だが、それはそれでよかった。この空間から出れないことはきっと『罰』なのだから。
闇はゆっくりとクグレックの身体も侵食し始めた。
暗闇から真っ黒な複数の手がぬっと出現した。その手はクグレックをゆっくりと包み込む。
決して心地良い物ではなかったが、クグレックはそれを『罰』だと思い込み、静かに受け入れる。
黒い手はじわじわとクグレックの左胸へ接近する。服の上からクグレックの体内へ侵入すると、左胸を中心にクグレックの体が黒に染まっていった。肺も血管も骨もクグレックを構成する器官が闇に浸食される、冷たくも温かくもない気味が悪い感覚に襲われ、クグレックは恐怖で呼吸を荒くさせた。
黒い手がクグレックの心臓を掴んだのだ。
心臓は黒い手によって引っ張られる。痛みは感じないが、取り出される、という感覚だけは間違いない。いつか体内から取り出されてしまうという恐怖感がクグレックを襲った。
と、その時だった。
「やめろー!変態キング!」
暗闇空間を蹴り壊して、ニタが現れた。一瞬、暗闇空間に警報音と緑色の光が届いたが、すぐにニタに破壊された箇所は暗闇に包まれ再び静寂と暗闇が戻って来た。
突然の出来事に、暗闇から発生し、クグレックの心臓を掴んでいた黒い手は一瞬漏れこんだ光に掻き消えてしまった。
「ニタ…!」
クグレックはニタの姿をみて、闇に堕ちかけていた精神を取り戻した。
傷一つないニタ。さらにその傍にいる人物を目にして、更に安心した。ニタの隣にいる体格の良い金髪の男性。冷たくも優しい空の様な水色の瞳をしたマシアスことトリコ王国第1皇子ハーミッシュがいたのだ。
「クグレック…。」
優しい表情を見せるマシアス。マシアスの手にはクグレックの樫の杖が握られている。隣でニタはブイサインをしてにっこり笑顔だ。
暗闇の世界であることに変わりはなかったが、二人の存在はクグレックの心を明るくさせた。
それと同時にクグレックの頬を一筋の涙が伝った。ニタに再会して、本当に安心したのだ。
「全く、ククはニタがいないと、すぐ泣いちゃうんだから。」
そう言いながら、ニタはククに近付くと、その体をぎゅっと抱きしめた。
「だって、ディレィッシュは戦争を止めることが出来ないって言うから。もうここから出ることは出来ないって言うから。もうどうにもならないんだなって思って、でも、ニタ達が来てくれた。ニタ達が…」
クグレックは小さなニタの身体に顔を埋めて泣き喚くので、最後の方は人語を発してはいなかった。
ニタはやれやれというような表情を浮かべて、泣き喚くクグレックの背中をポンポンと叩いた。
「うんうん、頑張ったよ、クク。なんか変なところにいるけど、意識をちゃんと保ってるし、頑張った。本当に、ここまで『一人』でよく頑張った。」
と、ニタが優しい言葉を掛けると、クグレックはより一層激しく泣き喚くので、ニタは困った表情でハーミッシュに視線を送り、クグレックが落ち着くのを待つことにした。
――緊急事態、緊急事態、深部管理ルームにて異常発生、緊急事態、緊急事態…
かつてのクグレックが夢の中で聞いた警報音と同じサイレンと放送の音声。
クグレックは、はっとして、今いる現在が夢なのかもしれないという疑問に包まれた。どうやって今の状態を現実だと判断できるのか。そもそも、いまクグレックが存在しているこの世界も、現実かどうかはっきりしていないのだ。彼女は一度炎に包まれて死んだはずだった。だから、彼女にとって彼女のいる世界は現世感を持った黄泉路なのだ。
ただ、この黄泉路は彼女の意志に関係なく、容赦なく厳しい出来事が襲い掛かる。
クグレックは、意識を手放そうとしたが、その瞬間、強い力で頭を掴まれたかと思うと、辺りは靄に包まれるようにして暗くなっていた。警報音も次第に遠のいていく。
それとは逆にクグレックの意識ははっきりしていった。
クグレックの精神が落ち着きを取り戻し、現状の把握に頭が働き始めたのだ。
周りは全くの無音状態で、クグレックの呼吸音しかしない。
そして、真っ暗である。光の無い、闇の世界。
不思議なことに、クグレック自身はしっかり見える。手や衣服も灯りがある時と同様に視ることが出来るのだ。そして先ほどまでクグレックが感じていた体調不良もなくなっていた。
(ここは、どこなの?)
真っ暗な中を歩くのは、不安だった。床が視えないこと、それだけでも恐怖感を感じずにはいられない。一歩進めた先に床があるとは限らない。底の見えない奈落かもしれない。
ふと向こうの方に、誰かがうずくまっている姿をクグレックは確認した。
狭間の世界と呼ばれるこの空間に誰かがいる。
暗闇の中を歩くのは怖かったので、這いつくばりながら前進した。向こうに見える人物が気になって仕方がなかった。
腕だけでなく脚の力も使った情けない形の必死な匍匐前進をして、クグレックはその人物の正体に気付いた。艶のある流れるような金髪にトリコ王国の白い衣装を身に纏ったこの人物はディレィッシュだ。
「ディレィッシュさん、起きてください。」
クグレックはディレィッシュを揺すった。ディレィッシュは青白い顔をして気を失っていたようだったが、しばらくすると「うう」とうめき声をあげて、意識を取り戻した。
はじめのうちはぼんやりとした表情を浮かべていたが、クグレックに気付くとゆっくりと表情を和らげた。下がり眉で微笑むその表情はクグレックに会えて嬉しいというよりも、申し訳なさそうな様子だった。
「クグレック…。ごめんな。」
「どういうことですか?」
「闇に潜んでいた『私』を制御出来ずに、ただの客人であるお前を巻き込んでしまった。お前をこんな空間に呼び寄せてしまったのは私の責任なんだ。」
ディレィッシュは静かに目を閉じた。
「でも、クグレックはここから出なくてはならない。なんとかして、ここから出してやる。」
再び力強く見開いたその水色の瞳は、弱々しさが掻き消えて、自信に満ち溢れるトリコ王の瞳に戻っていた。
クグレックはこのディレィッシュこそ、最初にあった時のディレィッシュだということを実感した。きっとマシアスやイスカリオッシュ、クライド達が好きなトリコ王ディレィッシュなのだ。闇だの魔だの言っている狂人とは違う。
「本物のディレィッシュだ。」
クグレックは思わず心の声を口にした。
「さよう、私がオリジナルのディレィッシュだ。」
ディレィッシュはクグレックを見つめて、ゆっくりと頷いた。
「じゃぁ、あのディレィッシュは何だったの?」
「クグレックが見たディレィッシュは、ずっと私の中に巣食っていた闇であり、魔だ。クグレックはこんな経験ないだろうか。窮地に立たされた時、湧き出る諦めの思い。嫌な気持ちになった時に感じる相手への嫌悪感。そう言ったふつふつと生れ出るネガティブな感情全てが、彼なんだ。無論、私だって人間だから、負の感情は勿論感じる。ただ、彼は魔なのだ。そう言った負の感情を彼はさらに増幅させようと私に語りかけてくる。だけど、私は彼の言葉を無視し続けて来た。彼の言うことは私の世界にとって、面白くない。つまらないものだったから。」
(…私だったら、ネガティブな方に流されると思う。)
クグレックは負の感情に従順だった。負の感情に押しやられ、生きることを放棄したし、誰かが瀕死の状態でいても、恐怖が勝って助けるどころか動くことすら出来なかった。
「でも、彼は素晴らしい力を持っていた。勿論私だって、機械に関する知識や技術は世界一だと思っている。私のことは『天才』と称されるが、その通りだと思っている。統治に関しても正直他国の為政者にも劣らない。だが、彼は情報操作という素晴らしい力を持っていたのだ。」
「情報操作?」
「彼はあらゆる情報を取り入れ、その情報を全て掌握し、動かすことで自分の思う方向へ進むことが出来るのだ。現に彼は全ての情報を操作して、国民の反対に遭うことなく戦争を開始しただろう。」
トリコ王国に来てから、クグレックとニタはディレィッシュの手のひらの上で踊らされているような感覚がしていたが、その通りだったのだ。彼の術に嵌っていたのだ。これが、魔の力。
「彼の力を初めて使ったのは、18の時、先代が亡くなって王位を継いだ時だった。18の私が王位を継いだことを良く思わない人達が多くてね、私は彼の力を借りながらハーミッシュ達と共に、彼らを排除したんだ。」
「排除?」
「その手段や経緯はクグレックは知らなくていい。ただ、トリコ王国を足蹴にし、私利私欲に生きる者達を、排除した。その時に使ったのが、彼の情報操作。彼の力を借りて輩を無理なく自然に悪に仕立てあげて、トリコ王国の、いや、世の中の正義として排除した。ただそれだけ。私にとって、彼の力はその時だけで十分だった。」
「そうではなかったんだね。」
「あぁ。それを期に彼の能力は私の思考と合体してしまって、私の予期しないところでも、彼の意志を持って能力が発動してしまうようになった。彼の力を使うことは、私が彼に従属することだ。彼に私の自我を分け与えることになる。じわりじわりと彼は私を浸食しながら、この時を持ち込もうとしていたのだろう。」
「つまり、魔の力を使いすぎたがために、ディレィッシュはこの空間に閉じ込められたっていうこと?」
「そういうことだな。私が魔の彼を私の中に閉じ込めていたように、力が逆転したことで彼が私を閉じ込めたんだ。それは魔との魂の契約で定められていたことだから覆すことが出来ない。」
「魂の契約?」
「呪いかな。魔が入り込んできた時にかかっていた呪い。魔をコントロールできなくなるか、コントロールすることを放棄した場合、魔とのポジションが逆転する、という呪いだ。」
ディレィッシュは見つめていた掌をぎゅうと握りしめ、にこりと微笑んだ。
「彼は、クグレックの存在が彼の力を増幅させた要因だと話していたが、…私はもうそれ以前に、壊れ始めていたのだろうな。だから、私に負担をかけまいとハーミッシュは単独で開戦停止の交渉に行ったし、イスカリオッシュは常に気をかけてくれていた。クライドも、忠義を尽くしてくれた。本当は、もうだいぶ前から皆に気付かれていたんだろうな。」
ディレィッシュはゆっくりと体を起こし立ち上がった。優しく、それでいて淡々と語るディレィッシュからは不思議と悲嘆的な様子は見えなかった。
クグレックと目が合うと、ディレィッシュはにっこりと微笑む。こんな暗闇の中に居ても、彼は余裕があるように見えた。
「だが、クグレック、お前はここに居るべきでない。元の場所に戻らなければならない。」
「ディレィッシュは?」
「私か?私は魔に殺されたようなものだ。元の場所の私は死んだんだ。出られない。」
「そんな。」
「そもそもクグレックが来るまで、この場所で意識がない状態だったんだ。外の状況は新年会以降曖昧だ。」
「でも、目が覚めた。戦争、始まっちゃったけど、止めなきゃ。私は、そのためにディレィッシュに会いに来たんだから。」
「戦争は、始まってしまったのか…。」
悲しそうにディレィッシュは俯いた。
「『無駄に命がなくなってしまうのも嬉しいものじゃない』って言ってたじゃない。私一人戻ったって、戦争を止めることは出来ない。ディレィッシュがいないと、このままじゃトリコ王国は…。」
「もう、どうにもならない。」
ぴしゃりとディレィッシュは言い放った。今までの穏やかな表情と打って変わって、真顔だった。
「全て彼の思惑通りに動いている。彼が望む破滅の方向へと。彼はトリコ王国だけでなく、大陸全てを混乱に巻き込むだろうことは私が一番よく知っている。それだけの力をトリコ王国は蓄えて来た。彼は世界を好まない。だから、壊す。彼の優秀な情報操作の力を以てして。」
クグレックはそのような言葉をディレィッシュの口から聞いてしまったことに、ショックを受けた。クグレックはディレィッシュにさえ会うことが出来れば、物事は全て解決すると思っていたのだ。彼の海の様な大らかな心に包まれて安心したかった。だが、それは叶わないようだ。
すなわちそれは、クグレックが破滅の引鉄を引いた要因であることが確定するということだった。
ディレィッシュがこんな状態になったのはクグレックが魔の力を増幅させてしまったせいなのだ。
クグレックは破滅の世界で、終末を呼び込んだ者としての責任を負って生きなければならない。そんな世界に彼女だけ戻すなんて、ディレィッシュも惨いことをする。
クグレックは顔を真っ青にして懇願した。
「私一人戻ったって、何も出来ないっ。ディレィッシュがいないと、このままじゃ、マシアスだってどうなるか。私は魔法の力で、物に触ることなく動かすことが出来る。だけど、きっと、国を動かすことは出来ない。だから、ディレィッシュがいないと…。」
かつてのクグレックが夢の中で聞いた警報音と同じサイレンと放送の音声。
クグレックは、はっとして、今いる現在が夢なのかもしれないという疑問に包まれた。どうやって今の状態を現実だと判断できるのか。そもそも、いまクグレックが存在しているこの世界も、現実かどうかはっきりしていないのだ。彼女は一度炎に包まれて死んだはずだった。だから、彼女にとって彼女のいる世界は現世感を持った黄泉路なのだ。
ただ、この黄泉路は彼女の意志に関係なく、容赦なく厳しい出来事が襲い掛かる。
クグレックは、意識を手放そうとしたが、その瞬間、強い力で頭を掴まれたかと思うと、辺りは靄に包まれるようにして暗くなっていた。警報音も次第に遠のいていく。
それとは逆にクグレックの意識ははっきりしていった。
クグレックの精神が落ち着きを取り戻し、現状の把握に頭が働き始めたのだ。
周りは全くの無音状態で、クグレックの呼吸音しかしない。
そして、真っ暗である。光の無い、闇の世界。
不思議なことに、クグレック自身はしっかり見える。手や衣服も灯りがある時と同様に視ることが出来るのだ。そして先ほどまでクグレックが感じていた体調不良もなくなっていた。
(ここは、どこなの?)
真っ暗な中を歩くのは、不安だった。床が視えないこと、それだけでも恐怖感を感じずにはいられない。一歩進めた先に床があるとは限らない。底の見えない奈落かもしれない。
ふと向こうの方に、誰かがうずくまっている姿をクグレックは確認した。
狭間の世界と呼ばれるこの空間に誰かがいる。
暗闇の中を歩くのは怖かったので、這いつくばりながら前進した。向こうに見える人物が気になって仕方がなかった。
腕だけでなく脚の力も使った情けない形の必死な匍匐前進をして、クグレックはその人物の正体に気付いた。艶のある流れるような金髪にトリコ王国の白い衣装を身に纏ったこの人物はディレィッシュだ。
「ディレィッシュさん、起きてください。」
クグレックはディレィッシュを揺すった。ディレィッシュは青白い顔をして気を失っていたようだったが、しばらくすると「うう」とうめき声をあげて、意識を取り戻した。
はじめのうちはぼんやりとした表情を浮かべていたが、クグレックに気付くとゆっくりと表情を和らげた。下がり眉で微笑むその表情はクグレックに会えて嬉しいというよりも、申し訳なさそうな様子だった。
「クグレック…。ごめんな。」
「どういうことですか?」
「闇に潜んでいた『私』を制御出来ずに、ただの客人であるお前を巻き込んでしまった。お前をこんな空間に呼び寄せてしまったのは私の責任なんだ。」
ディレィッシュは静かに目を閉じた。
「でも、クグレックはここから出なくてはならない。なんとかして、ここから出してやる。」
再び力強く見開いたその水色の瞳は、弱々しさが掻き消えて、自信に満ち溢れるトリコ王の瞳に戻っていた。
クグレックはこのディレィッシュこそ、最初にあった時のディレィッシュだということを実感した。きっとマシアスやイスカリオッシュ、クライド達が好きなトリコ王ディレィッシュなのだ。闇だの魔だの言っている狂人とは違う。
「本物のディレィッシュだ。」
クグレックは思わず心の声を口にした。
「さよう、私がオリジナルのディレィッシュだ。」
ディレィッシュはクグレックを見つめて、ゆっくりと頷いた。
「じゃぁ、あのディレィッシュは何だったの?」
「クグレックが見たディレィッシュは、ずっと私の中に巣食っていた闇であり、魔だ。クグレックはこんな経験ないだろうか。窮地に立たされた時、湧き出る諦めの思い。嫌な気持ちになった時に感じる相手への嫌悪感。そう言ったふつふつと生れ出るネガティブな感情全てが、彼なんだ。無論、私だって人間だから、負の感情は勿論感じる。ただ、彼は魔なのだ。そう言った負の感情を彼はさらに増幅させようと私に語りかけてくる。だけど、私は彼の言葉を無視し続けて来た。彼の言うことは私の世界にとって、面白くない。つまらないものだったから。」
(…私だったら、ネガティブな方に流されると思う。)
クグレックは負の感情に従順だった。負の感情に押しやられ、生きることを放棄したし、誰かが瀕死の状態でいても、恐怖が勝って助けるどころか動くことすら出来なかった。
「でも、彼は素晴らしい力を持っていた。勿論私だって、機械に関する知識や技術は世界一だと思っている。私のことは『天才』と称されるが、その通りだと思っている。統治に関しても正直他国の為政者にも劣らない。だが、彼は情報操作という素晴らしい力を持っていたのだ。」
「情報操作?」
「彼はあらゆる情報を取り入れ、その情報を全て掌握し、動かすことで自分の思う方向へ進むことが出来るのだ。現に彼は全ての情報を操作して、国民の反対に遭うことなく戦争を開始しただろう。」
トリコ王国に来てから、クグレックとニタはディレィッシュの手のひらの上で踊らされているような感覚がしていたが、その通りだったのだ。彼の術に嵌っていたのだ。これが、魔の力。
「彼の力を初めて使ったのは、18の時、先代が亡くなって王位を継いだ時だった。18の私が王位を継いだことを良く思わない人達が多くてね、私は彼の力を借りながらハーミッシュ達と共に、彼らを排除したんだ。」
「排除?」
「その手段や経緯はクグレックは知らなくていい。ただ、トリコ王国を足蹴にし、私利私欲に生きる者達を、排除した。その時に使ったのが、彼の情報操作。彼の力を借りて輩を無理なく自然に悪に仕立てあげて、トリコ王国の、いや、世の中の正義として排除した。ただそれだけ。私にとって、彼の力はその時だけで十分だった。」
「そうではなかったんだね。」
「あぁ。それを期に彼の能力は私の思考と合体してしまって、私の予期しないところでも、彼の意志を持って能力が発動してしまうようになった。彼の力を使うことは、私が彼に従属することだ。彼に私の自我を分け与えることになる。じわりじわりと彼は私を浸食しながら、この時を持ち込もうとしていたのだろう。」
「つまり、魔の力を使いすぎたがために、ディレィッシュはこの空間に閉じ込められたっていうこと?」
「そういうことだな。私が魔の彼を私の中に閉じ込めていたように、力が逆転したことで彼が私を閉じ込めたんだ。それは魔との魂の契約で定められていたことだから覆すことが出来ない。」
「魂の契約?」
「呪いかな。魔が入り込んできた時にかかっていた呪い。魔をコントロールできなくなるか、コントロールすることを放棄した場合、魔とのポジションが逆転する、という呪いだ。」
ディレィッシュは見つめていた掌をぎゅうと握りしめ、にこりと微笑んだ。
「彼は、クグレックの存在が彼の力を増幅させた要因だと話していたが、…私はもうそれ以前に、壊れ始めていたのだろうな。だから、私に負担をかけまいとハーミッシュは単独で開戦停止の交渉に行ったし、イスカリオッシュは常に気をかけてくれていた。クライドも、忠義を尽くしてくれた。本当は、もうだいぶ前から皆に気付かれていたんだろうな。」
ディレィッシュはゆっくりと体を起こし立ち上がった。優しく、それでいて淡々と語るディレィッシュからは不思議と悲嘆的な様子は見えなかった。
クグレックと目が合うと、ディレィッシュはにっこりと微笑む。こんな暗闇の中に居ても、彼は余裕があるように見えた。
「だが、クグレック、お前はここに居るべきでない。元の場所に戻らなければならない。」
「ディレィッシュは?」
「私か?私は魔に殺されたようなものだ。元の場所の私は死んだんだ。出られない。」
「そんな。」
「そもそもクグレックが来るまで、この場所で意識がない状態だったんだ。外の状況は新年会以降曖昧だ。」
「でも、目が覚めた。戦争、始まっちゃったけど、止めなきゃ。私は、そのためにディレィッシュに会いに来たんだから。」
「戦争は、始まってしまったのか…。」
悲しそうにディレィッシュは俯いた。
「『無駄に命がなくなってしまうのも嬉しいものじゃない』って言ってたじゃない。私一人戻ったって、戦争を止めることは出来ない。ディレィッシュがいないと、このままじゃトリコ王国は…。」
「もう、どうにもならない。」
ぴしゃりとディレィッシュは言い放った。今までの穏やかな表情と打って変わって、真顔だった。
「全て彼の思惑通りに動いている。彼が望む破滅の方向へと。彼はトリコ王国だけでなく、大陸全てを混乱に巻き込むだろうことは私が一番よく知っている。それだけの力をトリコ王国は蓄えて来た。彼は世界を好まない。だから、壊す。彼の優秀な情報操作の力を以てして。」
クグレックはそのような言葉をディレィッシュの口から聞いてしまったことに、ショックを受けた。クグレックはディレィッシュにさえ会うことが出来れば、物事は全て解決すると思っていたのだ。彼の海の様な大らかな心に包まれて安心したかった。だが、それは叶わないようだ。
すなわちそれは、クグレックが破滅の引鉄を引いた要因であることが確定するということだった。
ディレィッシュがこんな状態になったのはクグレックが魔の力を増幅させてしまったせいなのだ。
クグレックは破滅の世界で、終末を呼び込んだ者としての責任を負って生きなければならない。そんな世界に彼女だけ戻すなんて、ディレィッシュも惨いことをする。
クグレックは顔を真っ青にして懇願した。
「私一人戻ったって、何も出来ないっ。ディレィッシュがいないと、このままじゃ、マシアスだってどうなるか。私は魔法の力で、物に触ることなく動かすことが出来る。だけど、きっと、国を動かすことは出来ない。だから、ディレィッシュがいないと…。」